最近のネット社会と世の中の変化について分析してみる

ネット社会になって変わったと思うことを簡単にまとめる。スマホの普及によるネットユーザ層の変化などについての考察。

目次

女性や若い世代を意識したサービスが増えた

これまでコンピュータやインターネットの世界は男性主体、オタク/マニア主体の世界という印象が強かった。

スマホが普及し誰もが気軽にネットにアクセスできるようになった時代から、女性や若者を意識したサービスがやたらと増えたように思う。

これまで以上にネットが大衆化している。ネットバブルの波が再びやってきている。

他人からの評価に依存するようになった

自身の価値観よりも周りの価値観に合わせるようになってしまった。

SNSの普及によって人との繋がりが今まで以上に強くなっている。発信側も相手に合わせた対応を無意識にとるようになってしまっている。相手への配慮や遠慮も現実世界と同等のレベルで行われるようになっている。

他人に合わせて発言するようになった

意外と、多くのSNSユーザは本当の自分をさらけ出さなくなっているのではないだろうか。ネット上の他人との関わりによって生じた関係やイメージを壊さないために、本音を隠したり、相手が求めるような発言ばかりしていないだろうか。思ってもないようなことを言ってしまってはいないだろうか。

SNSの普及によって、人と人との繋がりが強くなっている。ネットとリアルの世界の境界が曖昧になっている。今後は匿名ネットへの回帰が起こるかもしれない。
実名SNSサービスのFacebookは衰退し、準匿名SNSサービスのTwitterは再ブームの波に乗り、文字数制限の緩和も実施されるようになるかもしれない。
また創作物に関しても、ユーザーの反応や要望に依存し、過激な表現や性的な表現も過剰に行われるようになっているように思える。
他人からの共感を得るために、過激な発言を行ったり、若干デリケートな話題やその意見を躊躇なく発言するようになっている。
現実世界の人々が普段思っていても言えないようなことを代弁しているようにも思える。しかし中には一線を越えた発言も多く見られる。

興味のない番組や作品を見るようになった

ネット上の話題やネタの意味を理解するために、本来興味のないような番組や作品を見るようになった。

これは現実世界の「先日のテレビ番組を見ていないと、翌日のクラスの会話についていけなくなる」という構図とよく似ている。
自らの意思や興味ではなく、周りとの協調性を維持する目的や使命感によって行動するようになっている。
ネット世界のコミュニティには、従来のテレビメディアと同様に、大衆を誘導する力が備わりつつある。テレビ産業の役割は、もはやネット世界のそれに取って代わられている。

質問サイト・ブームの再来

気になったこと気軽に質問できるようなサービスが増えた。特に技術系の質問サイトが多い。既存の質問サイトで既に解決済みの質問や、Googleで検索すれば直ぐに回答が見つけられるような質問でも、わざわざ質問サイトで気軽に質問する人たちが増えている。応える人達も人たちで、参考文献や解説サイトへのリンクを提示するわけでもなく、質問に対して懇切丁寧に答えてしまっている。車輪の再発明ならぬ、車輪の再説明・車輪の再執筆のような現象が起こっている。

質問者のレベルに応じた適切な回答が求められる時代がやってきているのではないか。
これらは、わからない問題を隣の席の生徒に尋ねるという、現実世界ではよくみる光景に近いものを感じる。ネット世界はいま現実世界のそれ近づこうとしているように思う。ネットと現実の境界が非常に曖昧な物になりつつある。
当面は現実世界で行われていたことをネットの世界で再現することが求められる時代になるのではないか。これは新たなネットサービスを生み出すチャンスでもある。フリマアプリはその良い一例だと思う。

他人の問題点を指摘する

専門的なブログ記事や技術系のブログ記事・解説サイトを書くことが、マニアやエンジニアのステータスになっていた時代があった。ただ今は誰もが気軽に記事を書ける時代となり、記事を書くこと自体に大きなメリットがなくなりつつある。

逆に今は他人の記事の問題や勘違いを指摘することが自己顕示の手段となっているように感じる。プラットフォームの存在やソーシャルログインがそれらを後押ししている。ネット活動を準実名的/準匿名的に行うユーザも増えている。

自己表現の手段が多様化している。一方的に表現するよりも、人と人との繋がりに重点をおいた表現方法が求められているように感じる。今後この流れは実名ネット社会の訪れによって更に加速していくのではないか。

TVニュースよりもネットニュースのほうが参考になる事が多い

テレビ番組のコメンテータの意見よりもネットニュースのコメント欄の意見のほうが参考になることがある。芸能人の意見よりもネットユーザーの意見のほうが参考になる事が多い。

情報量が違いすぎる。ネットは空間的・時間的な制限が緩い。ネットは多様性に富んだ意見を得やすい。ただ得られる情報は読み手の能力に依存し易い。自身に合ったメディアを適切に選択する必要がある。
ネットの場合、発信者の質はプラットフォームの規模や性質に依存するという欠点はあるが、これはTV業界でも変わらない。
TVメディアはその存在意義を慎重に見極めなければならない時期に来ている。近年では芸人や有名人ばかりが出てくる報道番組をよく見かけようになったが、これはこの業界なりの答なのかもしれない。

記事の内容よりもコメント欄を先に見るようになった

記事の内容よりもコメント欄の書き込みを先に読むことが増えた。最近はコメントの内容だけで実際の記事の内容を判断してしまったり、記事を読んだ気になってしまうことも多くなった。

記事が、自身にとって本当に読む価値のあるものなのかを、第三者の反応によって判断しようとしている。
他にも、記事を読むのが面倒だという理由や、サマリーページから本文への移動が面倒だという理由など様々な理由が考えられる。
ニュースサイトはサマリーページを廃止するべきだ。または非同期通信で本文を画面遷移無しに動的に読み込めるようにするべきである。

また宣伝目的の記事は一方的な情報のみを流していたり、中立性に欠けるものが多いため、コメント欄の意見を参考にすることが多い。コメント内の反応で記事の中立性を確認し、読む価値のある記事かどうかを判断することが多くなった。

今後は関係者がステマ目的で意図的にコメントを書くような時代になるかもしれない。そうなると今後は誰が書いたコメントなのかが重視されるようになってくる。匿名コメントとステマアカウントによるコメントは信頼できなくなる。

少数派が多数派のように振る舞う時代

少数派の意見が拡散されやすい時代になった。Togetterなどが良い例だ。個人の考えや思想を簡単に第三者へ広めることのできる時代となった。昔はブログ等の個人のメディアで発信していた情報を、今では多くの人が集まる巨大なプラットフォームで気軽に配信できる時代となった。

本来ひっそりと主張するべきことを、大勢の人間のいる場で行っているような状況でもある。少数派の意見がまるで多数派の意見のように受け止められてしまう状況すら生み出しかねない。過激な主張に対して反論するユーザが出てくると、より議論が白熱し、より多くの人達の目に触れやすくなるという性質もある。

ネットには拡声器として側面がある。受け手はネット上の情報や主張を真に受けないよう、物事を慎重に見極めなければならない。
人々の不満や批判、憎悪や嫌悪が増幅・表面化されやすい時代となっている。これまでは地域コミュニティや匿名掲示板という小さな世界で行われていたことが、今ではSNSというより多くの人々が集まる場で行われるようになった。より多様なユーザの目に触れやすくなった。これはとても大きな変化だと思う。
ネットの最大の脆弱性はオープンである事、そして人々の感情までもをオープンにし憎悪や嫌悪、不満を表面化・増幅・連鎖させてしまう所にある。
価値観が多様化する社会ではなく、価値観が表面化する社会が生まれてしまった。

一方、小さな不満が人々の共感を集め、次第に大きな変化や改革を生み出す場合もある。ネットは使い方を誤らなければ有効に働く面もある。ネットは刃物のような存在だが、注意して扱っている内は便利な道具となる。

しかし我々はそれらを注意して扱えるほど賢い存在なのだろうか。インターネットは人類には早すぎる発明だったのではないか。

情報の質が下がっている

誰もが手軽に情報の送り手になれる時代となった。またそれによって金銭的対価が得られる時代でもある。専門家ではない素人が、金銭目的で情報を発信し、結果として信憑性の低い情報を垂れ流すような事態となっている。今後は誰が発信した情報なのかといった、いわゆる権威性が重視されてゆくだろう。

現状の検索エンジンでは、記事の信憑性や正確性を判断することは難しいはずだ。当面のネット世界では信憑性の低い情報に惑わされ続けなければならない。情報の質を担保するためには、問題点の指摘と改善が迅速に行える環境が必要(コメント機能など)。投票制を取り入れた質問サイトも有益(stackoverflow.comなど)。他人が発信した情報の問題点を指摘し合えるような環境や文化を備えたコミュニティも重要になっていく(qiita.com)。

サイトのページタイトルが過激で大げさになった

ページタイトルに釣られて記事を読んでしまう機会が増えた。実際に読んでみると大した内容でないことが多い

今は誰もがネットに記事や作品を公開できる時代になっている。数ある作品に埋もれてしまわないようにわざと目立つようなタイトル付けや大げさな宣伝を行うようになっているように思える。

この手のやり方はもう何年も前から「はてな」ユーザが多用していた。最近は一般的なブロガーがこの手法を使い始めている。

なぜライトノベルには過激なタイトルや大げさなタイトルが多いのか

これはライトノベルのタイトルがやたらと長く過激なものになっていく現状にも通じるものがある。ただライトノベルの場合は、インパクト性の他に情報量が意識されているように思える。「あらすじ」と同等の情報量を「タイトル」側に詰め込もうとしているのではないか。

昔は「あらすじ」が良ければ作品を買ってもらえる確率が高まった。ただ現代のような様々なラノベ作品が乱立する時代では、作品のあらすじを読んでもらうまでの敷居が非常に高くなっている(特にネットで本を探すような場合は商品ページを開く手間が掛かるためなおさら面倒である)。

結果としてタイトルで読み手を惹きつけるようになってしまったのでは無いだろうか。作品の概要や世界観を「あらすじ」で伝える時代から、「タイトル」で伝える時代になっているように感じる。

社会風刺が心に刺さらない

最近は風刺の効いた作品を見てもイマイチ感化されない。ありきたりすぎて冷めてしまう。現実で既に起こっているようなことや、SNSで誰もが呟いていることをそのまま表現したようなものが多い。物凄いスピードで進む現実に追いついていない風刺ばかりだ。共感が共有されやすい今の時代では、社会風刺はもはや時代遅れなのかもしれない。もっと過激な表現や、未来を見据えてた表現が必要なのではないか。

直球的でわかりやすい表現のみが受け入れられる今のネット社会の性質にも問題があるのではないだろうか。

無責任な批判家が増えた

ソースをしっかりと読まずに物事を批判する一般大衆が増えている。一時ソースを調べず、二次、三次ソースの内容だけで物事を判断してしまっている。

また記事のタイトルや出だしだけで、全体の内容を把握したつもりでいる者も多い。曖昧な理解で物事を批判しようとする無責任な人達が非常に増えた(SNSの気軽さもこの無責任さを後押ししているのではないか)

SNSには面白いこと呟いたり、正論を言うことを目的としている人たちも多くいる。その手の人達にはソースの内容はあまり重要ではなく、話題のきっかけに過ぎない。この手の人達は、過激な見出しに飛びつきやすい。
記事を書く方も話題性を狙って、あえて曖昧で過激なタイトル付けを行っているような気もする。そのためタイトルと内容が必ずしも一致しないことがある。批判する側はそのタイトルや見出しを前提に記事を叩いたりSNSに拡散してしまうため、余計に誤解が広がってしまう。

一般人が知識人・評論家を批判する時代

評論家や知識人の考えに対して意見が言える時代になった。メディアとしての媒体がテレビや雑誌と限られていた時代では、評論家や知識人に対する意見や批判は敷居が高く制限される機会も多かった。

ただ今はTwitterやFacebook等のコミュニケーションツールで気軽に他者を批判できる時代である。自分達の意見や考え方を社会に発信できる時代でもある。他人の偏った考えに対してNOと言える時代となっている。

また自分達のほうが賢いという考えを持つ者も多くなった。実際、彼らの発言には既存の専門家や評論家よりも優れたものや的を射たものも多い。ただ、その他多くの主張は客観性が乏しく主観的なものであることがほとんどである。

今日における評論家や知識人への批判・バッシングは、自分とは違う考えを持つ者への批判という側面が強く感じられる。恐怖や嫌悪感が滲み出てしまっているようなものがほとんどである。

なお有名人やYouTuber、演奏家への批判にも同様の解釈が当てはめられるような気もするが、こちらはどちらかと言うと嫉妬心や独占欲・自己顕示欲のほうが上回っているようにも思える。

今日のネットユーザが行う批判は「評論」ではなく、単なる「避難」であることが多い。評論家/専門家の意見とネット上の意見を同等に扱うことは難しい。

不毛な議論が増えた

ネットの普及によって誰もが気軽に発言者になれる時代となった。自分たちの考えや意見を表明できる時代である。しかし現代では独善的な人々で溢れてしまっている。彼らは明らかに誤った主張を我が物顔で主張する。間違えを指摘されても決して過ちを認めようとはしない。世の中を良くするための議論ではなく、自分たちの考えや意見を認めさせるための論争で溢れてしまっている。そしてそれに反発するものも出てくる。相手を打ち負かし優越感に浸ることだけが目的となってしまっている。現代のネット社会は独善的優越感に支配されている。

大衆の実体が曖昧な世界

相手の顔が見えず、群衆の規模が可視化されず、小さな声が大きな声として拡声されやすいネットの世界では、自分たちの脅威となる存在があたかも大勢いるかような錯覚を受けやすい。実際には数人にも満たない活動家や工作員たちの意見が、まるで何千何万という群衆の声のように聞こえてしまうこともある。すると自然にそれらの脅威に対抗しようとする大衆も生まれてくる。ネットという空間は相手の顔や群衆の規模感が曖昧であるがゆえに対立が起こりやすい。ネットユーザは疑心暗鬼に晒されながらこのネットの世界を生きなければならない。社会(ネット社会)を知り、ネットの世界が全てではないということを知る必要がある。

少数派の憎悪が肥大化する世界

現代のネットやSNSでは、まるでクレーマーのように理不尽な要求を訴える者や、社会への不満を過激に訴えるユーザ急速に増えている。ヒステリックに物事を糾弾したり、精神的に不安定と思われるような支離滅裂な言動や反論を行う者も多く見られる。自分たちを圧倒的な正義と信じ、相手の主張を受け入れることなく、過ちを認めることなく、他者を威圧し続ける。妥協案を模索していこうという建設的な姿勢は見られず、自分たちの要求を押し通すことしか考えられなくなっている。社会を良くするための議論ではなく、戦いに勝つための議論をしている。

彼らを生み出した要因は、やはりネットの存在によるところが大きいのではないか。ネットによって、自分と同じような考え方を持った他者の存在を容易に認知できるようになった。それによって、自分は一人ではないのだという安心が得られる。自分の考えは間違っていなかったのだという確証が得られてしまう。自分にとって都合の良いコミュニティに浸り続けることで、小さな確信が次第に大きな確信へと肥大化していく。一部の他人の過激な思想や憎悪が、まるで集団の総意のように感じられる。仲間意識や一体感、同調によって彼らの思想は際限なく先鋭化する。

ネットの中の閉じた世界では憎悪だけが増幅し続ける。それはいずれ他のコミュニティーにまで感染し侵食し続けるだろう。それらはまるでネットという名の生命の中でくすぶる癌のように、同胞同士の争いと分断を生み出し、いずれ文化の衰退と崩壊を引き起こす。

怪物化する正義|肥大化する憎悪と壊れゆく社会について考える

二次元が叩かれやすい風潮

芸能事務所がVTuberを起用し始めてるが、おそらくこの界隈でも女性蔑視を訴える人が出てくるだろう。モーニング娘やAKBのような三次元の時には表立たなかった運動が、二次元というフィルターに変わることでより活発化しやすくなるはずだ。

それはおそらく生身の人間よりもバーチャルのほうが叩きやすいために起こる。アイドル業界への批判は、誇りを持ってアイドル活動を行っている当事者や大衆的なファンへの批判にも繋がるため、良心が痛んだり萎縮したり自重が働いたりするが、ネットという仮想世界を主戦場とする二次元アイドルの場合はそれが弱く、バッシングへの敷居が低い。作り手と受け手の存在が見えにくいがゆえに叩きやすいのだ。

アニメ絵/萌え絵を描いている人間やそれを見ている人間が可視化されにくい現状も、アニメ絵/萌え絵叩きが起こりやすくなる一因となってるように思える。人は抽象的な存在や得体の知れない存在、理解の及ばない存在、ステレオタイプ化された虚像への憎悪を過剰に増長してしまう生き物なのではないか。だから三次元よりも二次元のほうが憎まれやすいのだ。

アニメ絵/萌え絵への嫌悪は、実はそれを描いているオタクや、アニメ絵/萌え絵を求めるオタク達に対して向けられているとも考えられる。勝手なイメージで対象への嫌悪を膨れ上がらせ、自ら創り上げた過剰な憎悪に捕らわれている。我々は虚像を憎んでいるに過ぎないのだ。

個人の影響力が小さくなった

特定のオルトコインを宣伝するバーチャルアイドルなんて見ていると、もの凄い時代になったなと実感する。

昔のネットはとにかく自由で個人の影響力やコミュニティの意向が反映されやすい風土や環境があったように思うのだけど、今のネットは政治の世界よろしく、様々な勢力や組織の思惑が複雑に絡み合って身動きの取りづらい世界になっているように感じる。窮屈で欲にまみれた世界になった。

フォロワー数の多さが武器になる時代だ。支持者が多くなれば発言力も大きくなる。彼らはさながら政治家やメディアのように、ネットという社会を動かし、統制し、利用しようとする。

現実世界で行われてきた醜い争いや権力の奪い合い、裏切り、いじめ、モラル違反、行き過ぎた信仰、組織へのテロ行為が、今度はネットの世界でも起こるようになる。

知としてのインターネットはもはや過去の理想と化してしまった。ネットは人間社会の醜さを映し出す鏡へと成り下がった。

中間搾取の蔓延

スキマ時間や自身のスキルを売るためのサービスやフリーランス向けのマッチングサイトが増えている。仕事がしたい人と仕事をして欲しい人を引き合わせるためのサービスだ。売上の数パーセントが手数料として徴収され、サービス事業者側の利益となる。

中には請け負った仕事を別のフリーランスに格安の料金で横流しする中間業者のような存在もいる。いわゆる二次請け、三次請けの多重下請け構造がクラウドソーシングの世界にも存在する。このピラミッド構造の末端にいる人達は安い賃金で働かざるを得ない状況にある。

マージンで儲けようとするビジネスが増えている。個人の労力が最大限の対価として還元されない世界が蔓延している。ピラミッドの上層にいる人達だけが少ない労力で大きな富を得る不公平な世界が出来上がっている。そしてそれが分かっていても仕事をしたいと思う人達がいるのもまた現実である。自身の能力を安売りしてでも働きたいと思う人達がいる。

貧困層を食い物にするサービスやビジネス、人材派遣業の行き過ぎた中抜きモデルは早急に淘汰されるべきだと思う。ネット社会のサービス事業者はそういった仕組みや業界を生み出さないためのシステムやイノベーションを提供する必要がある。テクノロジーはそういったことのために使われるべきでは無いか。

格差社会と富裕層の役割について

格差社会が進む現代や貧困ビジネスが蔓延する現代では、富裕層は貧困層や中間層を支える存在になるべきだと思う。お金持ちは富を搾取し溜め込むのではなく世の中に還元するべきだ。

いずれ著名人やお金持ちのノブレス・オブリージュを体現するための運動や団体が出てくるだろう。小さな市や州では既に持てる者の義務を負う個人や資産家を多く見かけるが、もっと世界的にノブレス・オブリージュの流れが起こるべきだと思う。その世界的なノブレス・オブリージュ運動を最初に推し進めた人物はこの現代の歴史に名を残すことになるはずだ。

しかしこの流れを最初に実現するのは人ではなくシステムになるかもしれない。つまりこの先、富裕層が持てる者の義務を自発的に果たそうとすることはなく、いずれベーシックインカムなどの社会システムによって強制的に富が分配されるようになる。

格差と欲望が資本主義の癌を生み出している。ベーシックインカムは持てる者達を押さえ込むための存在として機能するようになるのではないか。

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