なぜ日本にはツッコミ文化があるのか【皮肉と風刺/芸人とコメディアン】

なぜ日本ではツッコミという文化が発展したのだろう。日本人のユーモアは独特すぎて突っ込みがないと理解されにくいからだろうか。

日本人は真面目すぎてユーモアやジョークが通じない/理解できないと言われているけれど、ユーモアやジョークが理解できないことと、日本特有のツッコミ文化が発展したことには何か密接な繋がりがあるような気がしてならない。

海外のジョークはわりと直球的な物が多く、デリケートな話題や皮肉も多いが、日本の笑いはもっと曖昧で、皮肉や社会問題の話題もオブラートに包んだものが多い。下手をしたら伝わらないんじゃないかと思ってしまうような高度な笑いを詰め込むのが、日本のお笑いの特徴だと感じる。その曖昧さをカバーするためには、たしかにツッコミは必要不可欠なのかもしれない。

ところで、海外のジョークは「よくぞ言ってくれた!」的なものが多い印象を受ける。

コメディアンは国民が世の中に対して日々感じている不満や疑問を代弁する役割を担っているように思える。

対して、日本の笑いは「あ、それ言っちゃうんだ!?」的なものが多い。

日本の芸人は、日本人が普段思っていても口に出せないようなことをオブラートに包んで笑いのネタにする。多少過激な発言も、ボケ役をなだめるツッコミ役がいるからこそ成り立つ。ある種の汚れ仕事を引き受けるボケ担当とそれを上手く引き立てるツッコミ担当の計算されたやり取りに、日本のお笑いの奥深さを感じる。

日本で社会風刺や政治ネタが根付かない理由についての考察

日本の社会では政治を語ることがタブー視されているような空気があるように思える。左寄りや右寄りといったレッテルを貼られて叩かれるのが目に見えてしまっているからだろうか。芸の本質も評価されることはない。圧力に怯え妥協してしまっているのが日本のお笑いの現状だと思う。

そもそも受け手が社会風刺や政治ネタを求めていないようにも思える。せっかくの楽しい時間に辛い現実を突きつけられ、他人の説教を聞かされたくはないはずである。ウーマンラッシュアワーの風刺漫才で感じたのはまさにそれであった。言っていることは正論で、関心しながら聞いていたのだが、笑えたかというと笑えない。観客のバカ笑いがとても不気味に見えた。ツッコミ役が従順すぎるし、直球的で一方的な芸という印象を受けた。

逆に爆笑問題のスタイルはよくできていると思う。社会や世の中を非常に巧みに皮肉っている。特にボケとツッコミの掛け合いが絶妙だ。ボケとツッコミがあってこそのスタイルなんだと思う。観客に寄り添っているような印象を受ける。辛い現実を笑い飛ばすような芸だとも感じた。風刺や政治ネタが根付かない日本で、爆笑問題のスタイルにはどこか大きな可能性を感じさせられる。

やはりボケとツッコミは特異な文化だと思う。また「風刺」と「皮肉」は似ているようで異なる。日本のお笑いでは「風刺」よりもこの「皮肉」が求められているように思う。

また、直接的で辛辣な芸はドン引きしてしまうが、辛そうで辛くない少し辛いピリ辛な芸にはどこか憎めない感じや安心感が得られる。

ボケとツッコミの文化に関する考察

ボケとツッコミは共感を生み出すためのツールであるという見方もできる。人々の生活や常識に深く踏み込んだ笑いを共感によって引き出しているのだ。言葉では表現しづらいような心の奥底にある感覚を、ボケとツッコミの対比によって上手く引き出している。直接的な主張や批判は、ボケとツッコミの遠回しで抽象的なやり取りによって中和される。受け手とツッコミ役は加虐的な笑いの罪をボケ役に背負わせることで安心を得ることができる。

忖度し配慮し遠回しで曖昧でオブラートに包まれた日本の文化と、ボケとツッコミによる笑いの文化は、ひどく似ているように思える。

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