「動物が可哀そう」ではなく「人間の野蛮さが不快」なのでは?

最近の動画サイトでは、昆虫を虐待する動画が流行っているようだ。

いくつかの動画を見てみたが、わりと残酷で野蛮な行為だなと感じた。

生き物が可哀相だという以前に、人間の愚かさや見苦しい様を直視させられている感じが何よりも不快であった。単なる残虐なパフォーマンスや「虐待」に「研究」や「実験」「検証」という大義を持ち出し、自らの行為を正当化しているような欺瞞も感じられる。このような陰険で残忍な人間が身の回りに存在していることの脅威に生理的な恐怖さえ覚えてしまう。そして何より、このような動画を楽しんで見ている周りの人々が恐ろしく稚拙で下品で残酷な存在のように思えてくる。

昆虫への同情心よりも加害者に対する不快感の方が遥かに上回った状態だ。そもそも他人である自分には昆虫の気持ちを完全に推し量ることなどできない。

ただ、これが動物への虐待動画だったとしたら、果たして私は何をどう感じていたのだろうか。

虐待された動物に対する共感や同情は、加害性への嫌悪を上回るものとなるのだろうか。動物への同情心から加害者への嫌悪が生まれるのか、それとも両者は同時に生まれるのか。あるいは嫌悪や憎悪を正当化するために必要以上に動物を憐れむのか。

動物愛護主義者やヴィーガンは動物側の苦痛や権利を熱心に訴えているが、実は彼らは同時に他者への憎悪を発露・発散し、他者の愚かさを遠回しに糾弾している側面が少なからずあるのではないか。既存の社会規範や宗教的価値観を暗に否定している面もあるのではないか。

ことヴィーガンは動物への加害を強く問題視しているが、その裏には食肉や畜産という野蛮な行為を嫌悪する気持ちもあるのではないか。欲求を抑えることのできないダラしない民衆を嫌悪する気持ちがあるのではないか。彼らは動物のあるべき姿ではなく、人間のあるべき姿を規定したいのではないだろうか。

死刑制度廃止派も同じだろう。彼らは死刑される側の人々に寄り添っているわけでもなんでもなく、ただ単に死刑制度の存続を求めるような愚かな大衆を軽蔑しているだけなのである。罪人の命を絶つことでしか自分たちの不安や怒りを収めることのできない、そんな理性のない野蛮な大衆を暗に否定しているのである。大衆は自分事のように被害者へと共感することができるが、リベラルにはそれができないし、する必要もない。リベラルの原動力は弱者への共感ではなく、多数派を見下すプライドの高さにある。
なぜ知識人やエリートはリベラル左翼な思想に傾倒するのか

彼らは「真実を知ってもらいたいだけ」と言うが、しかし彼らはただ人々の罪悪感を煽っているだけではないのだろうか。少なくともそう見えてしまうからこそ、人々から相手にされなくなってしまったのではないか。

残酷で野蛮な者たちに対する軽蔑の気持ちもあるのだろう。目の前の不安や脅威を排除したいという動機もありそうだ。それらは行き過ぎると差別的な思想へと変貌し得る。

結局は「動物のため」ではなく「自分のため」なのではないだろうか。傷ついた弱者よりも傷ついた自分を何よりも慰めたいのではないか。

その手の利己的な善意が悪いと言いたいわけでは無いのだが、しかし当事者の意見を無視した過度な社会運動や、動物愛護、悪書追放運動、死刑制度否定思想、ヌードルハラスメント問題、小人プロレスへの抗議、オタクバッシング、フェミニズム運動、ポリティカル・コレクトネスを始めとする多くの運動においても、あの手の本音は建前の裏に、または別の本音の裏に隠されてしまっているように感じられる。

またこの手の運動は対象の完全なる排斥を目的としてしまう点に問題があると感じる。加害者が自らの問題性を自覚し内省する間もないまま、「弱者のため」という大義名分によって一方的に物事が進められてしまう。だから不平や反感が生まれ、敵対関係が強まり、必要以上に問題がこじれてしまう。長い時間をかけて解決するべき問題をその場の勢いで早急に解消しようとするからおかしくなるのだ。これは現代のネット社会のいたる所で起こっている現象である。あのポリティカルコレクトネスでさえも、社会の緩やかな改善のためではなく、問題の早急なる解消のための手段として用いられてしまっている。

昨今の正義の人たちは、社会を良くしたいのではなく、ただ目の前の不快なものを排除したいだけなのではないだろうか。

倫理の問題を感情で語ろうとすることがそもそもの間違いだったのではないかとも思う。感情の問題を倫理の問題として語ろうとすることもまたおこがましいことだと思う。自己と他者の内面を見つめることなく、感情と勢いだけで物事を変えようとすることに大きな問題があるのではないだろうか。

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