「あなた達は差別されている不幸な存在です」と言って、弱者の不安や怒りを煽るような行為が、果たして「正義」や「正しさ」と言えるだろうか。
恵まれた地位にある者たちが弱者に寄り添い、まるで善人のように振る舞っている。
ポリコレ表現は弱者に辛い現実を突き付け、彼らに立ち上がることを強いている。
辛い現実から目を背けてギリギリのところで心の平穏を保っているような人々に対して、お節介な正義信者は「あなた達は惨めな存在だ」「現実と向き合って戦うべき」と言って彼らの不安と怒りを煽る。平穏な弱者を自分たちの駒にして戦わせている。
現代は弱者の苦しみに寄り添うことのできる賢い人々で溢れている。彼らは弱者を救うために、弱者たちの辛い現実と苦しみを代弁し世界に広く認知させようとする。しかしその行為自体が弱者を深く傷つけていることに、彼らは気づこうとはしない。
この世界には辛い現実から距離を置いて生きている人々がいる。辛い現実を辛いものと思わずに前向きに生きようとしている人々がいる。知らないままでいられれば幸せでいられたはずなのに、お節介な正義信者は、そんな弱者に醜い現実と絶望を突き付け、彼らの傷口を開いて回っている。まるで悪魔や死神のようにだ。ただ穏やかに生きたいだけの羊たちに狼になるようそそのかす。そこにはまたも強者が弱者を支配する構図が存在している。劣った者たちを支配する強者の優越がそこにはある。彼らはだた慈悲深い自分たちに酔っているだけである。自分たちが安全な地位にいることをただ実感したいだけである。現代の正義は弱者を利用した強者の娯楽に過ぎない。
弱者の苦しみを声高に主張する彼ら強者たちは、自分たちの行動によって生じる弱者の痛みから目を背けている。その痛みは目的を達成する上での過程の一つに過ぎず、その一時の痛みと犠牲によって世界は必ず正しい方向へと前進し、いずれ全ての弱者が幸せになれる時がやってくるはずだと、彼らは信じて疑わない。
彼らは人々の憎悪をいたずらに煽り、対立と分断を広げただけで、世界は何一つ変わってはいない。彼らはただ私利私欲のために人々の憎悪を利用しただけなのだ。