エリートや知識人がリベラル・左翼になる理由

なぜ知識人やエリートはリベラル左翼な思想に傾倒するのか。

恵まれた人たちは大衆の「不安」を理解できない

そもそも彼らのような恵まれた立場にある人間は、一般大衆の不安を理解できないために、多数派に寄り添うことができない。だから分かりやすい「弱者の人権」や、壮大な「地球環境の危機」といった問題の方に関心を向けざるを得なくなる。

なら一方で多数派はなぜ保守的な思想を持つに至るのか。それは彼らが自分たちの生活を脅かすような脅威に対して常に不安を抱いているためである。「原発を廃止すれば電気料金が高騰する」「移民を受け入れると犯罪が増える」「買い手市場となって賃金が低下する」「難民やマイノリティを優遇すれば自分たちの社会リソースが奪われ税金も高くなる」そういった不安があるからこそ、大衆は変化を恐れ今の状況を維持しようと躍起になる。

大衆は自分たちの「生活環境」がいつ崩壊するかも分からないという脅威に本能レベルの不安を感じている。大衆が目の前の現実に目を向けているの対して、恵まれた立場にある者たちはより広い「地球環境」や、遠い先の未来、人類の理想といったものに目を向けている。

境遇の違いゆえに両者の見ている世界はまるで異なっているのだ。

口は出しても金は出さない

持てる者たちは自分たちに優位な社会を決して変えようとはしない。だから彼らは搾取にあえぐ民衆に寄り添うことをしない。分かりやすい「弱者」や「環境」といった問題に注目して綺麗事の「善人ごっこ」を続け、ただ恵まれた立場にある自分たちの後ろめたさや罪悪感を解消しようとするばかりだ。分かりやすい弱者の味方をすることでしか、彼らは自分たちの生きている意味を見いだせない。自由を求める人間の葛藤とその苦しみを、彼らは真に理解することはない。彼らがやっていることは、弱者を利用した人形遊びに過ぎない。

なぜ脳内お花畑のリベラル左翼は大衆に憎まれるのか。それは彼らが自分たちの優位な地位を手放すつもりはないくせに、口だけは一丁前の社会運動で何かを果たした気になろうとしているからである。社会を変える力を持っているにもかかわらず、彼らはそれを民衆のために使おうとはしないし、協力し合おうともしない。それは彼らが搾取の恩恵にあずかる存在だからだ。結局は自分たちの立場を守ることしか考えていないのである。

彼らが弱者に寄り添う理由はとどのつまり弱者への罪滅ぼしである。強者の安泰は弱者の苦しみの元に支えられている。彼らはそのことへの罪悪感をただ一時だけでも解消して安心したいだけなのである。目の前の弱者は救うが社会は変えない。自分たちの安泰を手放すことは絶対にしない。それは持てる者ゆえの利己的な態度であり当然の本能だからだ。

彼らがどんなに世界の悲痛を訴えようとも、それは理解あるインテリ層や上流階級・支持有権者への必死な有能さアピールにしかならず、その高尚な意志や芸術・政策が民衆の心に響くことはない。

ルサンチマンと社会の均衡

実はこの社会には左と右の横の対立だけではなく、こういった上と下の縦の対立が存在している。中間層が崩壊し格差の広がりも増してゆく現代では、今後もこの対立はより一層深まってゆく。

昨今、大衆の間では陰謀論に傾倒する者たちが増えているが、それは大衆が自分たちの不安や脅威に抗うための手段として陰謀論を利用しているためである。自分たちの脅威を排除するために、彼らは薄々おかしいとは気づきながらも、陰謀論を信じているフリをする。その行動によって人々が団結し合い社会を変えられると信じているからだ。民衆は噂やデマを利用することによって自分たちを虐げる者たちを排除しようとしている。

歴史上の革命や虐殺は、このような民衆の不満や格差の中で生まれてきたものである。そのような未来を回避するためには、持てる者たちが変わるか、大衆の団結をいかに阻止・分散させるかが考えられる。現代ではどうやら後者の道が採られようとしている。それはすなわち「弱者同士で争わせればいい」という道である。

なぜ彼らは無意識の内に大衆とマイノリティの対立を煽ってしまうのか。それは彼らの中に大衆を見下す傲慢さがあるためである。

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