人工知能と人類の未来 ─ GoogleでLispを検索して気づいたこと

私は知らない言葉を検索する際に、検索結果画面から真っ先にWikipediaのリンクに飛ぶような愚かなことはせず、まずは画像検索の結果を眺めるようにしています。

「青写真」のGoogle画像検索結果

「青写真」のGoogle画像検索結果

画像などの視覚情報は非常に情報量が多く、また文字情報よりも一瞬で多くの情報を得ることが出来るため、言葉や用語の雰囲気・趣旨を短時間で掴むことが出来ます。

画像検索で得た印象や雰囲気を前提に実際のWikipediaの記事を読むと、理解力や記憶の定着率も格段に増すため、非常に効率的でオススメの検索スタイルです。

最近は一般の検索画面でも画像を表示してくれる

ただ、最近はわざわざ画像検索画面を開かなくとも、一般の検索結果と一緒に画像も表示してくれるようになりました。

「青写真」のGoogle検索結果。画像検索の結果も一部表示されている

「青写真」のGoogle検索結果。画像検索の結果も一部表示されている

検索ワードによっては画像だけでなくWikipediaの内容を抜粋で表示してくれることもあります。

アメリカのGoogleで「Lisp」を検索した場合

人工知能研究向けプログラミング言語「Lisp」のアメリカ版Google検索結果

人工知能研究向けプログラミング言語「Lisp」のアメリカ版Google検索結果

アメリカのGoogle検索結果ではWikipediaの抜粋とともになにやら難しそうなアプリケーション画面がイメージ画像として表示されます。なにかのコンソール画面なのでしょうか。若干お固い印象を受けますが、プログラミング言語の歴史を支えてきたLispらしい知的な雰囲気を漂わせています。Lispが長年築き上げてきた信頼と品格を感じさせる検索結果と言えるでしょう。

日本のGoogleで「Lisp」を検索した場合

日本語版Googleでの「Lisp」検索結果

日本語版Googleでの「Lisp」検索結果

こちらはなかなかユルい感じですね。Lispってこんなにフワフワした印象だったかな。人工知能とか遺伝的ネットワークとか、そういう世界観はお呼びでないようです。ある意味日本らしい検索結果と言えなくもないですが。相変わらず日本は平和です。

イメージが異なるとイメージも異なる

しかし、国によってこうも検索イメージが異なるとは。イメージ(画像)が異なるということは、検索者が受けるその言葉自身のイメージ(印象)も異なってしまうということですから、これは由々しき事態です。アメリカなら合コンの場で「趣味はLispです」と言うと相手方が帰宅後Lispをググって「やだ・・・かっこいい・・・」となるわけですが、日本ではこれが「やだ・・・なにこれ・・・」となってしまうわけです。これはちょっとした恐怖です。

Googleに悪意はなさそう

これらの情報はGoogle工場の小人さん達が手作業でコツコツ掲載しているわけではなく、間違いなく半自動的に、検索エンジン側のAIが検索ワードの関連性を基準に選定していると考えて良いでしょう。

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これはサブリミナルではないか

しかしこれらの情報はある種のサブリミナルにもなり得ます。Google側AIのチューニング次第では、利用者への意図的な印象操作も可能になります。

Google以外の第三者がAIの裏をかいてこれを悪用・政治利用しようとする可能性も考えられます。ビジネスに活用することも出来るかもしれませんが、これから人工知能が爆発的に発展してゆけばAIに対してGoogleのコントロールが及ばなくなる事態も想定されます。AIに自我が芽生えるようになればことさら厄介です。これは検索分野だけの問題ではなく、我々が日々利用するニュースサイトやその他のサービスも同様の問題を抱えることになるでしょう。もしかすると、そのうちSF映画のように人類がAIにコントロールされるような時代もやってくるかもしれません。

我々はテクノロジーを信頼しすぎている

天気情報や路線情報を使っていると、この情報は本当に真実なのかと感じる事があります。例えばスマホの路線情報から「中央線で人身事故があった」と聞かされれば、多くの人は山手線や地下鉄を使って目的地へ向かうかと思います。スマートフォンの路線情報がそのように指示してくれるからです。ですが本当に中央線で事故なんてあったのでしょうか。もしかしたら人類を支配しようとしているAIが意図的に、利用者を山手線や地下鉄に乗せるために、情報操作を行っている可能性だってありますよね。

我々は今、テクノロジーに信用を通り越して信頼しきっている感があります。いずれこの信頼は我々人類の弱みとなり、知らぬ間にその信頼に付け込まれるようになるでしょう。

世の中のテクノロジーやサービスは大変便利ではあります。しかし我々はそれらを使い始めた時点で既に、テクノロジーの支配下に置かれたのだということを自覚しなければなりません。

テクノロジーに頼るということは自我を放棄するということだ

テクノロジーに頼るということは、ある意味自身の判断・決断を放棄していることに等しいと言えます。将来、人々のライフスタイルやライフプラン、仕事、その他全てを人工知能が決めてくれる社会がやってくるはずです。人々に合った最適な行動をコンピュータが決めてくれる社会です。これは間違いなくディストピアと言えるでしょう。

コンピューターに自身の選択を委ねるということは、自らの意思で自ら考えて行動することを放棄するということです。これは「人間やめます」というのと同じことなのです。

自ら考える事をしないのは死んでいるのと同じ事だ

「考えないやつは死んでるのと同じだ」
「自ら考えない人間は生きている意味がない」

ブラック企業の経営者がいかにも言いそうなセリフですが、我々がテクノロジーに頼るほどにこれらの言葉の真意は高まっていきます。

人類の選択の全てをAIが決められるほどにテクノロジーが発展し、人類がそれらに依存するようになれば、もはや人類がこの世に存在する理由は無くなってしまいます。テクノロジーの利便性に甘んじ、AIの言いなりになってきた人類は、言われたことしかやらないロボットとなんら変わらないのです。であればもういっそのこと、ビッグデータからより優秀な人間のクローン(熱効率がよく、知性も高い)を産みだして、今までやってきたようにAIからそれらをコントロールすれば、より効率的で生産的な社会を作り出すことが出来るのではないでしょうか。

テクノロジーの言いなりになってはいないか

我々は今テクノロジーに頼りすぎているきらいがあります。お天気情報も路線情報も大変便利ではありますが、我々は無意識の内にテクノロジーの言いなりになっている・振り回されているのだということを忘れてはなりません。

AI『人工知能』に支配されるということ

AIが人類を支配すると聞くと、多くの人は真っ先に映画「ターミネーター」を思い浮かべると思います。ロボットが人間を物理的に淘汰する未来ですね。ですが、本当に恐ろしいのは我々人間側が自ら考える事を放棄し、機械以下の存在に成り下がってゆくことのほうではないでしょうか。

それはロボットに殺されるよりも恐ろしいことだと思うのです。

今週の一言

利便性を受け入れることは少しだけ死ぬことだ

そういえば、「考えるのをやめるのは死ぬことだ」と言うと、なんだかジョジョっぽいことに気づきました。死ねないから考えることをやめたのだとしたら、考えることをやめるということは死ぬことなのかもしれません。

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  1. ピンバック: 西尾維新を検索すると東浩紀の画像が出てくる | MaryCore

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