もはやスマホやSNSの利用は社会的な活動であり、それはある種の労働のようなものでもある。それらは常に人間の意識をフル稼働させ続けている。現代の若者が労働を極端に忌避するようになった理由も、スマホやSNSの利用が労働に匹敵する程の負担となっているためだと考えれば納得がいく。
時間的・精神的な余裕がネット(デジタル上の活動)によって奪われてしまっているのだ。にもかかわらず、ネットの利用は単なる娯楽や暇つぶしの域を超え、もはや労働よりも重要な行為となってしまった。もう誰もネットを贅沢や怠惰、恥ずかしいものとは思わなくなってしまった。ネットの利用は人間の社会的な活動の一部となってしまったからだ。しかしそれは、まるで昭和の時代に喫煙文化が当然のことのように受け入れられていた時のようなものなのである。
絶え間なく変化するネットの利用を、重大な社会活動として捉え、その中で時間や効率・成果ばかりを求めようとする若者たちは強い焦燥感に駆られた状態にある。彼らは常に活動し続けなければならないという強迫観念に囚われている。その姿はまるでアルコールやエナジードリンクで自らを奮い立たせているかのようでもある。まるで決まり切ったギャンブルの世界に根拠のない僅かな変化を無我夢中で追い求め、ただ時間だけを無駄にしているようでもある。変化のない億劫な人生を変えてくれる天災や天使か何かがいつか降ってくることをただひたすら待ち続けている。人々は現実世界の中で得られなかったものを、ネットの世界の中で得ようとしている状態にある。ただでさえ多忙な現実世界での生活に加えて、ネット世界の膨大なタスク処理を自らに課している(※1)。
1分1秒を惜しむ現代人の精神状態は明らかに健全ではなく、そのような状態が長く続けば、いずれ人々の意欲はプッツリと途切れ、やがて無気力な状態へと陥る。
このままいけば、そう遠くない未来に人類の総鬱時代がやってくるだろう。
※1 このように、人々がネットによる負担を自ら背負っているという見方をすれば、ネット利用によるメンタル疲弊は、それを個人の自己責任として咎めることもできてしまうだろう。ネットをしなければいいだけなのだから。これなら労働者の疲弊の責任を労働環境ではなくネットの側に転嫁することさえできてしまう。
しかしこの場合のケアとして、人々はネットの利用を控えるよりもまず、労働の負担を優先的に減らそうとするだろう。ネットによる活動よりも現実社会の労働のほうがよっぽど過酷で得られるものも少ないからだ。現代人が労働を忌避するようになった(あるいはこれからそうなる・より深刻化する)理由はそこにある。ネットは現代のアヘンとも言える存在だが、しかし人々がそれを求めるのにはそれ相応の理由があるのだ。