貧困、未婚、少子化、孤独化、メンヘラ、無職、ひきこもり、それら全てを自己責任論で片付けてしまうのは危険だと思う。
なぜなら自己責任の風潮は「個人の責任を社会が負わない」という姿勢の元に成り立つからだ。
個人が責任を取るのだから、全ての行動と結果は個人の自由の元にあり、よって、社会はその行動と結果を咎めることができなくなる。
そして何よりも、個人のその後の人生にさえも社会は干渉ができなくなる。
個人の失敗と堕落、怠惰は個人の責任の元にあるのだから、それを社会から責められる筋合いはないということだ。
人々が、ろくに働かず、子供も作らず、社会に税金を収めないような生き方を取ろうとも、それはあくまで個人の自由と責任の元にあり、社会にそれを責める資格はないのである。
責めたところでどうにもできない。
個人には社会の要請に答える義理がない。
保証の無い社会に忠誠を尽くす理由がないのだ。
契約とギブアンドテイクが成り立たないのだ。
自分の置かれている環境の改善される見込みや保証がないと分かれば、個人はそこから離れてゆく。すなわち社会が個人から見切りを付けられるようになるというわけだ。それは当然の結果である。
また個人の失敗に無責任な社会は人々の挑戦する意欲さえも奪ってしまう。
自己責任論は個人の自己正当化にも都合が良い。自己責任論は人々を社会から切り離し、彼らに究極の自由を与えてしまう。自己責任論と社会責任論のいいとこ取りによって人々はますます堕落を極める。行き過ぎた社会責任論が人々を怠惰にするように、行き過ぎた自己責任論もまた人々を怠惰にするのだ。
自己責任論は従来の日本的な社会を破壊する。
日本は欧米の価値観を無邪気に取り入れ自国の特異性を失ってゆくのである。
自己責任論は権力者の責任逃れに都合が良いが、そのツケはいずれ必ず回ってくる。
社会責任の風潮では、社会を変えることによって個人を変えることができるが、自己責任論のやり方で個人を変えることは極めて難しい。
自己責任論による同調圧力や、ある種の社会統制は、彼らが多数派になれば成り立たなくなるが、しかしその頃にはもう後戻りはできなくなっている。
戦争、ナショナリズム、人種差別は、個人と社会を再び結びつける手段として都合の良いものとなる。