透明飲料と生きづらく窮屈な社会|日本社会というディストピア

どこもかしこも透明な飲料を発売している。透明なミルクティーや透明なコカ・コーラ、透明なノンアルコールビールなんてものもある。

その多くは「仕事中や会議中でも飲めるように」といったコンセプトや狙いを込めて売り出されている。まるで「仕事中に甘い飲み物や色のついた飲み物を飲むことは悪いこと」であるかのような様相である。

たしかに、ジュースっぽい見た目の飲料を職場に置くことに躊躇してしまう層は一定数いるのだろう。役所の公務員がジュースを飲むとクレームを受けるため、透明飲料の需要が伸びているという、にわかには信じがたい噂も聞く。しかしそれらはあくまで一部の人たちの不憫な事情であって、それがあたかも世の中全体の風潮であるかのように捉えてしまうのは、いささか危険すぎはしないだろうか。過度な思い込みは、余計な罪悪感や不要な忖度にも繋がりかねない。

ただ、業務中に色のついた甘い飲み物を飲むことに後ろめたさを感じている人達がいることも事実だろう。周りの目を気にして遠慮したり、仕事中に甘い飲み物を飲むことをけしからんことだと思っている頭の固い人たちに配慮してのことだろう。*1

寛容さのない堅苦しく息苦しい窮屈な社会だなとつくづく思う。*2 *3

オフィスの社員も役所の公務員も人間である。得体の知れない風潮やクレーマー、頭の固い連中が彼らの自由と権利を奪う道理はないはずだ。仕事効率の観点でも糖分の摂取は必要だろう。もっと堂々としてはどうか。周りの目を気にして遠慮したり、根拠のない圧力や閉塞感に怯えながら生きる社会は酷く窮屈ではないか。

実体を伴わないステレオタイプで曖昧な風潮や、一部の声の大きなクレーマーによって、社会がどんどんと生きづらくなっていく。目に見えない圧力や監視に怯えながら生きる我々現代人は、さながらディストピアの抑圧された住人のようである。また、我々は空気を深読みしたり空想を読むことによって、行き過ぎた全体主義を自らの手で作り出してしまっているようにも思える。

現代のビッグ・ブラザーは、日本人が持つ過剰なほどの遠慮深さや慎み深さの中に宿っている。インターネットによって増長される行き過ぎた常識や風潮、虚構、口うるさい少数派や声の大きなクレーマーによる社会の目は、まるで現代のテレスクリーンのようである。

透明飲料を飲むことは無言の抗議でしかない。周りの目を気にせず気兼ねなく飲める透明飲料はさぞ美味しいことだろう。

色のついた飲み物を飲むという行為は、誰も気に留めない透明な存在にはなりえなかった。目に見えない圧力に怯えながら生きる無色な現代人は、かくして透明な飲み物を欲した。色のないノーマルを装って生きたほうが楽だと分かっているからだ。実体の見えない空気すら甘んじて飲む。そしてこの裏で起こった多様性の淘汰については誰も気にかけない。偏見に立ち向かうことなくただ見て見ぬふりをしている事にも気づいていない。この見せかけの甘美な香りを漂わせる無色透明のコーヒーは、ただむなしい虚空と孤独の味がする。

補足1

かく言う私も、そういった遠慮や配慮をしてしまう。定時退社に後ろめたさを感じてしまったり、マクロやプログラミングで楽をしていることを悟られないようにしたり、FF外から失礼したりもする。日本という名の広大な村社会では、目立たず、波風を立てず、爪を隠し、苦労に耐え、控えめに生きることが美徳とされてきたように思うが、現代ではそれが少し行き過ぎてしまっているように思えてならない。人を縛り付けるだけの文化はもはや健全な文化とは言えない。
見せかけの謙虚さやモラル、秩序になんの価値があるのか。みんながやっているから「FF外から失礼」しているのなら、そこにはもう「失礼」という言葉の真意は存在しない。他人がどう思うかや、他人からどう思われるかではなく、自分がどう思うかに目を向けるべきではないか。面倒なはずのペットボトルのすすぎや、缶とペットボトルの分別がなぜあれほど楽しいのか。それはリサイクル業者で働く分別作業員の負担が減るかもしれないという期待や満足感が得られるからだ。現代人は謙虚さと美徳の意味を真に理解していない。それゆえに不幸なのだ。

補足2

真偽の程は定かでないが、警察官や警備員が水分補給やストレッチをしただけで、市民からクレームを受けたといった話も聞く。「気の緩みがあってはならない」「事故の元だ」といった短絡的で行き過ぎた正義感によるクレームなのだろうか。警察官や警備員が熱中症で倒れてしまっては元も子もないと思うのだが。陰湿なイジメとなんら変わらないようなクレームや、人をまるで奴隷のように扱うクレームが、世の中には恐ろしいほど溢れている。なにかを正そうとする気持ちや正義感も大事だが、もっと思いやりを持って相手のことを敬い考えることも大切だと思う。

補足3

ところで、日本のスーパーの店員が立ったままレジ打ちをするのは「椅子に座って接客をすると口うるさい客から苦情を受けるから」だという説もある。偉そうで怠けているように見えるのだそうだ。お客様は神様で、お賃金は苦痛への対価といったところだろうか。もう平成も終わろうとしている昨今にあって、そんな昭和のスポーツ根性ドラマみたいな価値観がまかり通ってよいものか。
一方で、ヨーロッパでは椅子に座って作業する。ベルトコンベアが備え付けられているため、椅子から離れることなくレジ打ちができる。そもそも椅子に座って作業をすることが法律で保証されているそうだ。法律なら仕方ないよね、といったところだろうか。いやそれは冗談として、とにかく「店員は奴隷ではなく客と対等な存在」だという高い意識を感じさせる。

追記

最近「仕事中に弁当注文 市職員が減給処分」というニュースを見かけた。規則違反なら仕方ないのかもしれないが、しかし3分間という時間がトイレ休憩やタバコ休憩よりも短い時間(または同等)であることを考えると、これほど大事にすることも無かったのではないかと思えてしまう。それに、空いてる時間に弁当を注文することは、むしろ賢いことのように思えた。昼に弁当屋に並ぶ市民や職員にとっても、並ぶ時間が減るため得になる。何でもかんでも規則やルールで縛って、柔軟性や合理性までも排除してしまうというのはいかがなものか。「お役所仕事」が無くならない理由がなんとなく分かった気がした。
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