五輪ボランティア批判と格差社会への不満|オリンピックやりがい搾取

労働には正当な対価が支払われるべきだと思う。それは多くの国民が日々感じていることだろう。

ブラック企業や派遣労働による低賃金・重労働の問題や残業代の不払い、技能実習生への搾取、イラストレーターのタダ働き、やりがい搾取など、現代ではスキルと労働力を平気で酷使しようとする社会が蔓延している。

そんな国民に鬱積していた不満が、五輪ボランティアの件でとうとう爆発したのではないか。*1

崇高なるオリンピックに罪はないのだろうけれど、この動きは搾取と格差に関わる重要で大きな動きになるかもしれない。*2

五輪の役員や運営者、広告代理店、芸能人、デザイナーには多額の報酬が支払われる一方で、現場で働くボランティアたちには一銭たりとも対価が支払われない。この不公平さに国民は不信感を抱いている。*3

地位と権力を持つ者だけが私腹を肥やし、持たぬ者が彼らの富を生むための奴隷として搾取され続ける。格差社会と資本主義経済の完成形とも言える存在がこの2020年東京オリンピックである。

「ボランティアなのだから嫌ならやらなければいい」という意見はごもっともだが、問題はもうそこにはない。労働に対価が支払わないこと自体がそもそもおかしいのではないかという論点に移っている。もはや日本の社会問題と重なる重大な問題にまで発展してしまっている。つまるところ社会批判のための恰好の標的となったのだ。しかし我々は今後の社会のあり方を考えるためにも、この問題と真剣に向き合っていかなければならない。*4

「苦労は買ってでもしろ」と言うが、そもそもそういう価値観がもう既に時代遅れなのではないか。今の五輪ボランティアは古き時代の価値観を現代の若者に押し付けているように思えてならない。それに不満を感じた国民も多かったのかもしれない。だからこそ「やりがい搾取」と批判されるのである。五輪運営による末端の労働者を軽視したやり方と現代社会の理不尽さがキモくマッチした結果が、この東京五輪ボランティア批判の悲劇を生んだのだ。

国民の不満を受けてか、五輪組織委員会は交通費に相当する額として1日当たり1000円の支給を決定した。小さな一歩だが、しかし賃金の現金支給という既成事実を嫌でも作りたくないという思惑が垣間見えて、余計に国民の不信感を高める結果となってしまったようにも思える。まあしかし仮に五輪の伝統と精神に反するのなら仕方のない選択なのだろう。なんと美しき忖度であろうか。ここにジャパニーズ「粋」の真骨頂を見た。

しかし「独自に作るプリペイド式のカード」による入金というのはなかなかの曲者である。そのシステムは一体どこの組織が作るのだろう。仮に既存のシステムを流用したとしても、カードのデザインや発行には多額の費用がかかる。その費用で五輪スタッフを雇用してはどうか。

逆にそこまでして無償労働をさせたいのか。そんなに嫌なのか。なぜブラック企業のお手本を国が率先して示そうとするのか。そんな国の掲げる「おもてなし」のために身を削り自己犠牲と奉仕の精神を捧げることに、もはや美徳を見出すことはできない。

たしかに独自のプリペイドカードで産業界は潤うのだろうが、国民の理解を得るのは難しいだろう。産業の活性化による雇用の創出よりも、五輪ボランティアを有償の労働力として確保することのほうが遥かに単純でわかりやすい。それが偉い人には分からないのだ。

まるで内輪で儲けることばかりを考える腐敗した利権組織の様相を呈している。

東京都は11万人のボランティアを集めるために4000万円をかけて人気女優を起用したテレビCMを制作しているようだが、この制作費や放映料をボランティアの日当に当てれば相当な数の労働者を確保できたはずだ。アルバイト募集という名目ならより少ない広報費でスタッフを確保できたかもしれない。大きな雇用創出にも繋がったはずだ。都民ファーストはどこに行ったのだ。

オリンピックは利権の象徴と化してしまった。一部の特権階級のみが利益を貪るオリンピックに、もはや崇高さや権威性は感じられない。そんな五輪に尽す価値はあるのだろうか。

困ったときに助け合うのがボランティアの本質だとすれば、ボランティアをコスト圧縮のための都合の良い道具としてしか見ていない現代の商業主義的な五輪運営にボランティアを募る資格はない。

オリンピックだから無償だとか、奉仕の精神が求められるとか、そういう都合の良い考え方はもうそろそろ見直すべき時代に来ているのではないだろうか。

補足

*1 皆生きることに精一杯なのだ。世の中や他人のために無償で尽くすような人たちはもはや少数派であり、お金と心に余裕のない国民が多数派を占めているというのが、この社会の現実なのではないか。今回の問題は日本の抱える現状を浮き彫りにしたようにも思える。私には批判やバッシングが、人々の心の悲鳴に聞こえてならない。
*2 いやよく考えてみれば、商業化が進んだ現代のオリンピックに、もはや権威性もなにもないのではないか。現在の商業主義に染まったオリンピック委員会にほんの僅かにでも良心が残っているのなら、まず五輪の開催時期をずらしていただきたいものだ。
*3 ボランティア活動の中には高度なスキルや専門性が求められる仕事も含まれている。
*4 五輪ボランティアを批判する人を「外野」と呼ぶ人もいるが、しかし彼らも国民であり、税金も払っているわけだから、国のやることに意見をいう義理はある。そしてその彼らが税金をもっと使えと主張している。これほど熱心で寛大な国民が未だかつていただろうか。
*5 ボランティアを支え合う文化も求められるだろう。五輪ボランティア・スタッフに対して公共機関が交通費を免除したり、飲食店が食事を提供したり、そういった支え合いを表明する企業が出てくれば、五輪ボランティアに対する見方や取り組み方も大きく変わるかもしれない。東京オリンピックに本当に求められているのは「おもてなし」の精神ではなく「ささえあい」の精神なのかもしれない。
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