生成AIは未だクリエイターの脅威とはなりえないように思える。
似たようなコンテンツばかりで「飽き」や「嫌悪感」を感じるためだ。
不気味の谷ではないけれど、AIコンテンツ特有の「臭さ」みたいなものがあるように思う。
それは癖や個性とも言えるのだけど、しかし個性の強いコンテンツというのはイメージの毀損が起こりやすく、使う側の品やモラルによって「安っぽい」イメージが付いたりする。
この、使い手によって醸成される「安っぽさ」や「嫌悪」のイメージは、量産系のAIコンテンツにとって割と致命的なものではないだろうか。あの匂いを隠せない限りはAIコンテンツに未来は無いと思う。
しかしここで厄介な問題は、学習元となったコンテンツにまで、その悪いイメージが波及しかねないということだろう。才能はブランドなので、イメージは大切だ。AIコンテンツの恐ろしさは、学習元となった既存のコンテンツやアーティストの価値を陳腐化してしまうところにあると思う。
生成AIは富の搾取に留まらず、才能の搾取をももたらす。よって生成AIの問題は、感情や倫理の問題ではなく、この資本主義社会における格差や搾取の問題として考えるのが得策だろう。加えて、昨今のAIブームは持たざる物たちによる既存の富の奪取という側面が高まっているようにも思う。
生成AIは文化侵略を体現する。それらは既存の文化や才能を食い荒らし、まるで何事もなかったかのように次の侵略先へと移り去ってゆく。AIベンダーは自分たちを革命家やイノベーターと誇るが、私に言わせれば、彼らの本質は利己的あるいは無自覚なインベーダーでしかない。
AI時代は平均の美が毀損される時代となるため、より「独創性」や「奇抜さ」「個」が求められるようになるだろう。しかしそれもまたAIによって模倣・再生産の対象とされるため、いたちごっこのようなことが続いていく。芽吹いた個性は即座に消費され、洗練の余地もなく大衆から飽きられてしまう。
しかし人間はそれを受け入れて、前に進み続けるしかないのだろう。
新たな才能はいつの時代にも求められてきた。そして周りの人々はそれを模倣し再生産してきた。
芸術の目的、ひいては私たちの生きる意味とは、人々の思いを受け継ぎ後世に託していくことにある。
模倣と再生産はAIがやってくれるようになった。
だから人間は新しいものを生み出すことに全力を傾けるほかない。
持たざるアーティストが不完全なものを不完全な状態で発表し、大衆がそれに満足してしまう。そういう時代を受け入れざるを得ない。個人によって生み出された不完全なミームが、集合知によって完全性を獲得していく、その過程を楽しむほかない。しかしそれらはこれまで以上に、一瞬で過ぎ去ってしまうようなものとなるのである。
生成AIの問題は模倣と再生産、思考の機会を人間から奪ってしまうことにあると思う。
それらの機会は人々の創造を支える根幹の営みであったはずなのだ。