社会の均衡を考えれば、一定のリベラル勢力の存在は必要不可欠である。しかし昨今の巷にあふれる全てのリベラルが社会にとって必要かと言われれば、そうとも限らないのである。
昨今のリベラル界隈には、社会に対して理不尽な要求や無理難題を押し付けてくるような者たちが多く見られる。彼らはそれらを時に高圧的に、そしてさも当然のことのように要求する。
多数派はその態度に反感を覚え、感情的な反発をより強めてゆくことになる。
つまるところ、リベラルが憎まれる理由は、彼ら少数派が社会に対して「お願い」をする側の立場であるにもかかわらず、彼らが傲慢な態度でもって社会と多数派を否定してしまっているところにある。彼らの“一部の者たちによる”攻撃的な姿勢が全てを台無しにしてしまっているのだ。
そもそも、リベラルのワガママは平和で豊かな時代だからこそ許容されている。
豊かさが失われつつある現代においても、多数派が我慢してくれているからこそ、若干の反発や非難は起こりつつも、しかしギリギリ彼らの要求は受け入れられてきたのだ。
しかし、社会が貧しくなれば、リベラルの要求に答えるための時間的・金銭的な余裕は失われる。戦争や災害が起これば人々の関心と目的意識は、目の前の危機を乗り越えることに全力で向けられる。
そのような団結的な状況では、もはやリベラルのワガママに付き合っている余裕など無くなる。リベラルの夢見がちな理想や贅沢、ワガママは多数派の機嫌一つであっけなく否定されるものであるが、貧しさがそれを正当化する。
つまり社会の豊かさと多数派の寛容さによって成り立っているのがリベラルという存在なのである。社会が一定の平和に行き着いているからこそ、正義ごっこをする余裕と闘争への憧れが生まれるのだ。
リベラルが自らの退屈を紛らわせ、社会のリソースがリベラルに対して注がれ続ける現代は、ある意味で豊かな時代の証明と言えるかもしれないが、しかしそれ以上に人々の反発が強まっている現状を見るに、その豊かさと寛容のピークはもはや過ぎていると言わざるを得ない。
むしろ今はリベラル同士による社会リソースの奪い合いが行われているフェーズにある。早い者勝ちのリソース獲得競争であるが、社会が衰退してゆけば、いずれそれも成り立たなくなる。