異世界物が流行る理由を考える|虚構が現実を超える現代

私たちは善をなすことが現実的ではない世界を生きている。

他人のためになることをする、ということは、人間として貴く価値のある行為ではあるのだが、しかし現代人には、もはやそれを行う余裕がないのである。

日々の生活で精一杯だからだ。今はこの高度化する社会の中で生き抜くことのみが最優先の時であり、他者のために労力を費やしたり、自腹を切るような行為は、自身の生存の可能性を下げる行為でしかない。善をなすための気力も財力も、自身の可能性も、心の余裕さえも失われてしまった。あまつさえ、この社会を変えることはできないという無力感が、若者たちを覆い尽くしている。

しかし人間には、他者のために何かをしたいという欲求や良心が備わっている。そういった欲求を現代社会で満たすことは現実的ではないが、しかし物語の中の想像上の世界であれば、それが可能であると思えてしまう。何よりリスクとコストを負う必要がないのがよい。

だから私たちは現実社会とかけ離れた異世界にこそ、自分たちの願望とその発露を求めてしまうのだろう。この困難を極める現実世界と比べれば、フィクションの世界での活躍を考えるほうがよほど現実的に思えてしまうのだ。異世界とはすなわち弱者の楽園であり、それは理想と心の拠り所としての宗教世界に他ならない。

私たちの住むこの世界は確かに存在しており、そのことに疑いの余地はない。ただ私たちの住むこの社会というものが、その実体を失い果ててしまった今、人々の関心が空想の世界や仮想現実、戦後・革命後の世界、異国などの新たな世界へと向けられることは当然のことといえる。

現代人はかねてより現実世界に強い諦めの念を抱き続けてきたが、その諦めと絶望が限界へと達してしまった今、人々はようやくこの世界に見切りを付け始めたのである。

私たちは想像の世界に喜怒哀楽を示すが、今やそれらの実感は現実世界で得られるそれを遥かに上回るものとなってしまっている。それで十二分に満足できるから良いのかもしれないが、しかしそこで得られた感動や意欲を現実世界に還元するための気力と能力は元より環境と機会が無ければ、人々はただ異世界の消費と再生産を繰り返すことしかできなくなる。もはや勧善懲悪は理想として語られるのみである。

けれどこのような宗教的馴れ合いなくして心の平穏を保つことなど叶わないというのが、この時代の現実なのだろう。

人は他者との繋がりを欲する生き物である。その繋がりを現実世界で満たすことが現実的ではないと思えてしまうこの現代社会というものは、明らかに異常であるが、その繋がりを空想の世界でのみ満たそうとすることもまた異常なことである。

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