弱者男性という概念が広まりだした理由は、その当事者の中に「弱者の方が得だから」という意識が芽生え始めたからではないだろうか。近年のマイノリティを丁重に扱おうとする世間の風潮がそれに拍車をかけている。
一昔前なら「自分はこんなに頑張っているのにマイノリティばかり庇護されていてズルい」といって弱者を罵倒し差別していた嫉妬深い人々が、今や「自分も弱者であることを受け入れた方が得なのではないか?」と気づき出して、弱者ポジションを享受する側に立ち始めたのではないか。
そして弱者男性論というのは、男らしさの呪縛に囚われた自分たちを解放するための方便としても都合の良いものだったのではないだろうか。
弱者男性という概念は自身の恵まれない境遇や能力不足による現状を正当化してくれる存在でもある。それ故に弱者男性論は彼らが自らの無駄な努力を諦める口実としても利用される。そのため弱者男性をカジュアルに名乗る人々の多くは自助努力を諦め吹っ切れた人たちと言える。しかし彼らには周りの人たちもそのように見えているから、彼らは自分だけが必死に頑張り続けることにただただ分の悪さを感じるばかりなのだ。
弱者男性論は弱者の団結を示すものであり、それは「弱者だから仕方ないよね」「もう頑張らなくてもいいよね」「助けを求めてもいいよね」「弱音を吐いていいよね」という合意を広めるための手段としても利用され始めているのではないだろうか。弱者男性論には男たちの嘆きを感じると同時に、格差を実感する男たちによる反抗の姿勢をも感じられる。
「周りがみんな諦めているのに自分だけ真面目に生きるのは損だ」という意識は、確かなものとして世間へと広まり始めている。
若者が働かなくなった理由もそこにある。
「周りがみんな働かないのだから自分も働く必要はない」
「真面目に働くほうがカッコ悪い」
そういった意識が現代の格差社会の中で広まり始めている。
弱者がマジョリティとなる時代がやってきたのだ。
民衆はいつの時代も弱者であるが、自分たちが弱者であることを自覚することのなかったこの数十年間というものは、少し異常な時代だったと思う。あの躁的な時代では金銭的な豊かさはあったかもしれないが、そこに自由はあっただろうか。「真面目に働くべき」という世間の声を気にしながら生きることは幸せだろうか。
これからの鬱的な時代では「怠惰に生きるべき」という世間の価値観が強まってゆくだろう。その価値観に抗うことも必要だが、今はその時ではない。
私たちは時代の転換点に立たされている。
若者の時代は今まさに始まったばかりである。
現代の弱者はもう古い時代の常識や価値観に縛られる必要などない。