弱者男性という蔑視表現が男性社会に与える影響

チー牛・弱男(弱者男性)という蔑視表現が浸透すると、無駄に強がる男たちや、強さを履き違えた男たちが増えることに繋がるだろう。

それはフェミニズム的にも、女性側にとってもマイナスの状況と言える。

イキった迷惑な男性が増えることになるからだ。
有害な男らしさが強化されることになるからだ。

富める者だけがより富み、誰もが弱者へとなりゆくこれからの時代では、強者になることよりも、見せかけの強者のような振る舞いをとることの方が遥かに容易くなる。

なお近年のネット社会では男性による弱男イジり(弱者男性蔑視・嘲笑)が頻繁に見られるが、彼らは決して強者の立場にあるというわけではなく、あれはただ「自分は彼らのような弱男とは違う」というプライドの表れに過ぎない。結局のところ、叩く側は叩かれる対象と同程度の存在でしかないのである。

しかし周りの人々は非活動的な弱者への嫉妬心や日頃の鬱憤も相まって、弱者への擁護に徹することをせず、ただそれを見て、叩かれている対象への偏見と、叩かれること・排斥されることへの恐れだけを強めてゆく。そしてこの世代の子どもたちはその常識や風潮に沿って育てられてゆくこととなる。

ここに男らしさの源流を見ることができる。

差別される側になりたくないという恐怖心が社会の歪な理想像を強化するのだ。差別的な感情が歪さを助長し、差別する者たちがそれに加担するという、救いようのない構造がある。

少なくとも、弱者男性という言葉は生きづらさを抱える男性たちの弱さを認め肯定するための言葉としてではなく、間接的に男性のあるべき姿を規定するための言葉として機能してしまう危うさがある。

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