腐女子はなぜ男たちの絆に憧れるのか

ボーイズラブを愛好する腐女子たちはなぜあれ程までに男同士の愛情に魅せられるのだろうか。あの欲望の根底には何があるのだろうか。

思うに彼女たちは共同体の繁栄に寄与する「男たちの強い絆」に惹かれているのではないだろうか。

異なる意見を持った男たちが互いに手を取り合う姿に、彼女たちは社会的な意義を見出し、そこに大きな可能性や期待・安心を抱いているのではないか。

この世は競争によって成り立っているが、しかし男たちがお互いの足を引っ張り合うようでは社会は発展しない。男たちの協力関係なくして社会の繁栄はない。

だから女性たちは男たちの協力関係を深めるべく行動する。男たちの功績を褒め称え、男たちを見守る側に立つことに徹し、男たちの協力関係に歓喜し煽てることで、男たちの絆をより高めようとする。女性排除は男たちの絆を深めより強固な社会を導く。それは自らは責任を取りたがらない女性という生き物にとって実に都合のよいものでもある(※1)。

女性がBLや男性アイドルグループに夢中になるのは、その行動様式の一つの形と言えるのではないだろうか。(※2)

※1 この日本人女性の「責任を取りたがらない」という性質は実に厄介である。「女性は会議が長い」というのもこの責任回避の姿勢が根底にあるように思う。女性はよく「自分の意見ではなく全体の意見」であるとして何かを主張しようとするし、常に「言い出しっぺ」にならないよう巧みに立ち振る舞う。その誘導が実に回りくどく会議が長引く原因ともなる。あれはおそらく女性集団の中で培われた本能なのだろう。
※2 最近では女に限らず、男性も同じように、男性間の友情に心を動かされる機会が増えているように思える。それは西洋的な自由主義や競争社会が忌避され始めた兆候と言えるかもしれない。人と人との協力関係が豊かな社会を築くという原則に人々はようやく気づき始めたのである。老若男女が他人の仲むつまじい姿を心地よく思えるのは、それが共同体の維持や発展に繋がる安定的な姿だからだ。そこからもたらされる安心感や期待感が心地よいのである。

本来、女性は遠く輝く月であった

女性は男性を翻弄する生き物である。女性を追い求める男性たちの果てしない性欲(攻撃性と支配欲、女性に認められたい、子孫を残したいという欲求)がこの強固な社会を形作っている。しかし現代ではこの社会の構造も大きく変わりつつある。これまでの女性たちは「求められる性」「養われる妻(守られる妻子)」という立場で安全圏から間接的に男性をコントロールしてきたが、女性の社会進出と孤立化が進む現代ではその欲求を満たすことは困難となっている。

BLはこのような社会における持たざる女性たちの支配欲を満たし得るコンテンツとしても成り立っている。自信を失い草食化した現代の男たちが自らの満たされない社会的な欲求と使命感を物語の中のか弱い少女たちやアイドルに投影するようになったのと同じように、女性性の支配力と優位性を失い弱体化した現代の女性たちもまた、自らの支配欲を手強い男性の登場人物に仮託し、想像の中で男たちを独占し征服欲を満たしている。

ボーイズラブがこれ程までに受け入れられている理由は、とどのつまりBLがこの苦難の時代に生きる女性たちの満たされない支配欲求と安心感を満たしてくれる存在となっているからだろう。

ところで、女性の性欲というのは「男性に求められる」ことそのものによって満たされるのではなく、「男性に求められる自分の凄さを実感している」その瞬間にこそ満たされるものなのではないだろうか。女性というのは男性のことよりも「男に求められる自分のことが好き」な生き物なのではないか。女性というのは愛してくれる相手ではなく、相手に愛されている自分を見つめている存在なのかもしれない。

ただそれが純粋ゆえに残酷なのである。そこに異性への憎しみは存在しないようにも思えるが、男性たちにはそれが確かなものとして存在しているように思う。自分しか見ていない女性たちは相容れない孤高の存在であり、無力な男たちはそのような女性に対する羨望と憎しみ故に女性を支配したいという欲望を抱く。それが男性の性欲の根幹をなすものではないか。しかし両者の欲望は決して相容れないものであり、男性が女性を求めれば求めるほどに、女性は遠い上位の存在となって離れてゆく。貴族たちが月の姫を追い求めるように、動物が自らの尻尾を追いかけるように、人々は終わりのない空虚な理想を追い求め続けているのではないだろうか。

現在、女性は光を失った月である

前時代の女性たちは潜在的にホモソーシャルの強化を望んできたが、しかしそれは女性の社会進出が求められる昨今においては果たされることのない欲求となってしまった。

現代の若い女性たちは男たちを見守る壁のような存在にはなれない。

この競争社会の脇役から主要な当事者へとならざるを得ないという宿命を現代の女性たちは背負わされている。だがBLはその満たされない願望や安心感を満たしうるコンテンツともなっているように思える。

あるいは反対に、この女性活躍社会に求められるであろう男性たちとの友情や友好な関係性はたまた男性への嗜虐や優位性の獲得などを前もって体感するためのコンテンツとしての役割もBLは担っているのかもしれない。既存の男性優位社会に溶け込むためには男たちの世界を知りその仕草を会得し擬態化する他ない。女性は自らの力で輝かなければならない。

そこにはまるで意欲的な女性たちによる「男性社会への憧れ」(男の子たちの輪に入りたいという幼少期からの満たされない願望とも重なるのかもしれない)のようなものが存在するが、しかしそれは「女性は男性と対等に強くなって社会で活躍しなければならない(家庭の奴隷から社会の奴隷となれ)」という昨今のフェミニズム的な抑圧や新自由主義的な扇動によってもたらされた歪みのようなものでもあるのかもしれない。

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