ホロライブ感想|テレビジョンとしてのVTuber

VTuber文化もだいぶ成熟してきたので、VTuberの世界にのめり込むなら今が一番いい時期だと思う。一昔前はキズナアイを筆頭とした「VTuber四天王」界隈が盛り上がっていたと思うのだけど、どうやら今は「ホロライブ」や「にじさんじ」というものが主流になっているらしい。

ホロライブの全体的な世界観や各キャラクターのことを知るには、公式の「ホロぐら(ホロアニメ)」や、第三者の「切り抜き」動画を見るのが一番手っ取り早いと思う。「手描き 切り抜き」動画で検索すれば厳選された質の高いコンテンツを見つけることもできる。

ホロライブとは、言ってしまえば芸能界やバラエティ番組のようなものだ。「世界の果てまでイッテQ」のような、芸人やタレントたちによる馴れ合い文化であり、メンバー同士の関係性や、お互いの反応、茶番劇を楽しむようなものになる。※1「二次元キャラ」「アイドル集団」という当初の印象はもはやない。

もちろん個人のチャンネル内で行われている個人的な活動を楽しむこともできるが、ライブ配信内の雑談やコラボ配信、切り抜き動画によってメンバー同士の関係性を必然的に知ることになる。そこで自分の推しがホロライブという共同体の中で活躍する姿を見て楽しむことにもなる。それはまるで自分の子供や身内の活躍と成長を喜ぶ気持ちとも重なる。

友達同士の飲み会とか、部活動の休憩時間みたいな、ああいう「楽しい場」を感じさせる文化だと個人的には思っている。クラスメイトと馬鹿騒ぎをしたり、友達の家に集まってワイワイとゲームをしていた子供の頃の、あの楽しい感じが再び味わえる。自身はゲームをプレイしていないはずなのに、それをプレイしている人々を見るだけで楽しいのだ。人が集まって、人が笑い合ってさえいれば、それだけで何か満たされる。

既に知っているゲームの実況であっても、それを初めてプレイするVTuberたちの反応を見るのは新鮮な体験であり、従来のプレイとはまた違った楽しさがある。ホロメンと同じ気持ちを共有する嬉しさが味わえる。自分の好きなものを友達に勧めたり教えたりする時の、あの何とも言えない満足感も味わえる(他人のためになることをして自分の役割を実感している時の、あの独特の満足感や使命感。また自分が初心者だった頃のワクワクを、目の前の新たな初心者を通して追体験する感じ)。

他者との繋がりを感じさせてくれるのがホロライブという存在だ。群れるタイプのオタクやゲーム/オンラインゲーム好きが好きそうなコンテンツではある。私は今も昔も独りキャンプを楽しむような真逆のタイプの人間なのだが、この手のコミュニティには憧れがあったため、今は失われた青春を取り戻すような感覚でこのホロライブを楽しんでいる。

一対多のVTuberの世界でこれほど人との繋がりや遊びの体験を感じさせてくれるのは、なかなか凄いことだと思う。逆にこの手軽さが丁度よいとさえ思える。自らが当事者になる必要はなく、テレビ番組のように気軽に楽しむことができる。「賑やかな世界に触れて孤独を忘れる」という意味ではバラエティ番組と相違ない存在と言える。それらを楽しむ上で、自身が行動する必要はなく、全てを当事者に任せることができる。そこに責任やプレッシャーはない。この気楽さがバラエティ番組というものの最大の特徴だろう。怠惰にダラダラと楽しむことができる。物語の結末が先延ばしにされ続ける芸能の世界で、視聴者は自らの歩みを進めることをしない。ただ自らの願望や目的を他者へと託し続けるだけだ。そこで得られる活力を糧にして、ただやみくもに自らの時間と気力を資本主義社会へと注ぎ込んでいる。

もっともこれらはVTuber特有の楽しさというよりは、「ユーチューバー」や「ゲーム実況」という文化の楽しさでもある。VTuberやバーチャルアイドルの真価はメタバースの世界と融合したその時に発揮されるのかもしれない。ただ今の文化をそのままメタバースの世界に移すだけでは失敗するのが明らかだ。昨今のVTuber文化はハイパーテキストの抽象的な世界の中で発展してきた文化だからだ。ハイパーテキストの世界で手軽に得られる上記の楽しみを、わざわざそのままメタバースの世界に移す必要など無いのであるし、むしろメタバースでしか得られない形(例えば多くのユーザーが当事者になれる仕組みなど)を提供できなければ、誰もわざわざメタバースに行こうとは思わない。逆にそれらを提供したからといって、既存のユーザーがそれについてきてくれるとも限らない。※2

そもそも怠惰を求める人々がわざわざアクティブな行動が求められるメタバースに行くとも思えない。メタバースはワンアクションで手軽に楽しめるようなものではない。高い通信料と演算量を支払ってまでして得たいと思えるような世界ではない。ウェブブラウザのブックマークバーの方がよっぽどメタバースしている。少なくともメタバースは既存のメディアの代わりにはならないだろう。バーや居酒屋、コンピューターゲームの代わりにはなるかもしれない。

誰もが発信者となれるメタバースの世界では、一般のユーザーや一般のコミュニティが存在感を示すようになるため、ユーザーの取り合いが今以上に激化するだろう。たとえホロライブやにじさんじのような大手芸能事務所であっても、その存在を今以上に示すことは困難となるのではないだろうか。また個人勢による共同体(箱)も数多く構築されるため、大手事務所に所属することのメリットは今よりも薄れてゆくだろう。

メタバースの世界は今のツイッターや昔の2ちゃんねるのような、広がりのある世界になると思われる。あるいは各事業者が独自のメタバースで各分野のユーザーを囲い込む形が一時の主流となる可能性もある。マストドンよろしくオープンソースや分散型のメタバースなども登場するだろう。しかし飽きっぽい大衆というものは、いずれ閉鎖的な特化型のメタバースを離れ、より気軽な広いメタバースに映っていくだろうから、結局最後はアメリカ産の巨大プラットフォームが一強となるのだろう。

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※1 おそらくAKB・乃木坂・ジャニーズの世界もこの手の感じなのだろう。彼らがその手のグループに夢中になる理由がなんとなく分かった気がする。「イケメン運動会」も「美少女幼稚園」も何が楽しいのか理解できなかったが、今ならなんとなく理解できそうな気がする。
ちなみに、芸人集団のイメージが強い昨今のホロライブであるが、中にはホロライブ創設時から生粋のアイドルとしてその輝きを放ち続けている「ときのそら」というVTuberもいる。アイドル文化に疎い私でも、彼女を通して「アイドルが如何なる存在であるか」を思い知らされたほどである。VTuberという文化が無くなったとしても、彼女だけはアイドルとしていつまでも存在し続けるように思えてならない。そんな永遠性を感じさせるアイドルはなかなかいないのではないだろうか。

VTuberのメタバース進出はことごとく失敗するのでは

※2 事実、ライト層の私自身は推しのVTuberを仮想空間の世界でより直に感じたいだとか、触れ合いたいなどとは思えない。そもそも、この数日ホロライブを見て良くわかったことは、VTuberは二次元の存在ではまるでないということだ。その裏に透けて見える人間性や生々しさ、ギャップに魅力があるのであって、皮の部分や世界観はそれほど重要ではなかったのだ。なんなら黒い鉄の板や消火栓、たぬき等のイラストで演じてもらっても構わないくらいなのである。まるで顔の見えない黒子や文通相手、電話越しのオペレーターに恋心を抱くように、VTuberを愛おしく思うことができる。

だからこそより今のハイパーテキストによる抽象的なWEBの世界で十分に思えてしまうのだ。むしろこのままのほうがリアルとさえ思えてしまう。メタバースにはメタバースの表現が求められるが、既存のVTuberがその変化に対して自らのブランド性やアイデンティティを維持しながら適応できるかどうかは疑わしい。私はメタバース上のアイドルに対して、心身ともに「二次元」的な存在(すなわち神のような存在、あるいはマスコットキャラクターのような存在)を求めているが、現代のVTuberはその存在から程遠いと言わざるを得ない。強いて言うなら彼らは巫女のようなものだ。しかしそれもまた魅力的であるから、人々はいつの世界でもそれを求めてしまうのだろう。現実は決して理想や想像の世界に追いつくことはないのである。だからこそ私にはその想像の世界がより魅力的に見えてしまう。決して手の届くことのない世界だと分り切っているからこそ、より安心してそれを追い求めることができるのだ。

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