少ない収入と少ない労働でのんびりと暮らす生き方に憧れる。
徒歩30分以内の近場で週3日だけ働き、お金のかかる外食やレジャーは控えて、家でまったりと内向的な趣味を楽しむような省エネ人生だ。
貯金はせず、余ったお金で食べたいものを食べ、欲しいものを買う。
まさに底辺人間やDQNの発想。でも彼らは幸せそうに見える。
豊かな貧困層とでも言うべきだろうか。
集団の中で何も考えずにアリのようにコツコツと働き続けるよりも、キリギリスのように一人で自由に生きていく方が幸せなのではないか。
目次
投げ出したい限界労働者
愛車もマイホームも持たず、結婚は諦め、子供も持たず、保険には入らず、いっそのこと年金も免除・猶予で払わないようにして、最後は生活保護に頼るのも良いかもしれない。いろいろと投げ出して吹っ切れてしまったほうが案外幸せに生きられるのではないか。
ただ世間はそれを許さないだろう。自身の努力不足を国や社会のせいにして不貞腐った負け組と揶揄されるかもしれない。
しかし格差社会による貧困化と労働搾取が進むこの日本では、このような投げやりな現実逃避をあくまで自己防衛の一環として正当化することは容易であり、そこに罪悪感などというものが入り込む余地はない。
資本主義社会の終わりのない競争にさらされ、もらえるかもわからない年金を払わされ、高い税金を負担しながら少子高齢社会を支え続けなければならない不幸な時代を我々は生きている。社会から押し付けられる都合の良いルールや理不尽な重圧と責任から逃げ出して、より自由で気楽な生き方にすがりたいと考える限界労働者も多いことだろう。
刹那的なライフスタイルに根拠のない豊かさを見出して、自ら進んで貧困化するというのは、明らかに異常な行為だと思う。しかし年収100万円の壁の先にも、年収200万円の壁の先にも、変わらず険しい世界が見えていることもまた事実だろう。手の届く範囲に希望はないのである。
これは明らかに自暴自棄の危険な選択なのだが、それすら魅力的に映ってしまうのが、この社会の悲しい現実だと思う。
この狂った資本主義社会の中で「社畜」と呼ばれ、奴隷のように搾取されている多くの労働者は、この先も変わることなく続く絶望の日々から逃避したいと願っていることだろう。頑張っても報われることのない環境の中でひたすらに生きたロスジェネ世代は望むまでもなく燃え尽きていくだろう。
コツコツと働いても報われない時代だ。少ない労力で高い報酬が得られるような環境にはたどり着けないと薄々気づいているはずだ。そして努力の先には割に合わない重い責任と長い労働時間だけが待っていることにも気づいている。
若者に責任はない
年老いた経営者と政治家は、若者に対して努力が足りないと言って根性論と自己責任論を押し付けようとする。しかし今はもう時代や環境が変わったのである。昔のやり方や価値観が通用する時代ではない。努力が成果に反映されない時代だ。あの経済成長期の波に乗り、物価が上がり続ける時代を生きた世代は、一体いつまで、古い価値観を押し付け、過去の栄光を追い続けるつもりなのだ。いい加減にこの社会の現状と向き合ってほしい。こんな彼らの要求に従う必要はあるのだろうか。それにこの今を作ったのは彼ら老人の世代だろう。そんな彼らに若者を責める資格はない。
貧乏人を批判する者たちは「貧乏が嫌なら搾取する側に回ればいい」と簡単に言う。たしかに搾取のカードが道に落ちていれば、私はいささかの罪悪感を覚えながらも迷うことなくそれを拾うだろう。しかしガラスケース越しのそれならば話は別だ。わざわざそれを手にしたいとは思わない。それは悪いことなのだろうか。
道理を守って正しい道を歩んでいるはずなのに、決して報われることがないのが、この社会のおかしなところだ。どういうわけか、この社会では倫理に反した者たちが得をし続ける。だからこそ、富裕層だけが優遇され、労働者だけが割を食うような不公平なこの社会に、多くの労働者は強い不満と失望を抱いている。有利なポジションで甘え続ける政治家と富裕層への怒りは日に日に増している。このどうにもならない憎悪や得体の知れない不満から逃れたいと思っている人々は多いはずだ。
社会に縛られた生き方は幸せなのか
世間体を気にして会社員を続け、結婚して子供を持ち、高い税金と保険料、年金、ローンを支払うために往復2時間超の通勤と長時間残業の日々を過ごすような生き方が、果たして幸せな生き方と言えるだろうか。その社会の求める模範的な人生というものは、貴重な時間と健康を犠牲にしてまでして求めるべきものなのだろうか。こんな時代だからこそ、お金では換えられない価値というものを現世代は追い求めるべきではないだろうか。人生の貴重な時間や、限られた気力と情熱はもっと別のことに注ぐべきではないだろうか。
将来の安泰を夢見ながら年老いていくだけの人生に何の喜びがあるというのだろう。
目の前に吊るされたニンジンを追い続けた先に何があるというのだ。
老化した精神と衰えた味覚でその腐りきった人参の味を確かめ何を感じ取ればいいというのだ。
配偶者や子供のために働くというのは、それはそれで充足感は高く、貴い価値のあることだが、持たざる者たちがわざわざその価値観を追い求める必要はないだろうし、それを社会から押し付けられる道理もない。だからこそ我々は自分たちの環境や状況に合った新たな価値観を模索していかなければならないと思う。
そこで考えたのだ。
絶望の時代を生きる我々はいかにしてこの希望のない不条理な社会を渡り歩いてゆくかを。
今ならフリーランスやギグエコノミーによる新たな道を模索することもできるが、しかしこの市場はいずれ供給過多となり、競争原理が過剰に働き、雇用側にとって都合の良いシステムに変化していくことは目に見えている。誰でもできる仕事というのは往々にして搾取されやすいものだ。やるなら今のうちだが、話題のITエンジニアの道をこれから目指すのはオススメできない。ITスキルは流動的で陳腐化しやすいからだ。年を取った頃には順応できなくなり、意欲と体力のある若い世代に取って代わられる形で簡単に使い捨てられる。もしくは表計算ソフトに画像をペタペタと貼り付けるだけの人生が待っている。しかしそれもいずれ人工知能や自動化されたシステムによって代替されてしまうだろう。やるなら伸びしろのある10代のうちから徹底的に学び、人間性とコミュ力を磨き、一流企業を目指す必要がある。あるいは、いつの時代にも対応できる普遍的な技能や、誰にも真似できない職人的な技能が求められる仕事を目指すのがいい。ただ社会人やロスジェネ世代が今からそれらを目指すのは難しいだろう。
希望のない社会で無理して働く必要はない
この腐りきった資本主義社会の中で生きている以上、どんなに正当な道を歩んでも、いずれ必ず搾取されてしまう。いやむしろ正しく真面目に生きようとするから搾取されてしまうのだろう。皆と同じ方向を向いているからこそ利用され、つけ込まれるのだ。
であれば、我々は逆を行くしか無い。
歩みを止め、野心や欲望を捨て、守りに入る。
辛く安く割に合わない仕事は、手を抜いて、楽をする。
世間の目も気にせず、他人と関わらず、孤独を愛する。
物欲や性欲、食欲といったあらゆる欲求を極限まで抑えて、少ないエネルギーで生きていく。
仮死状態に陥ったゾンビのような生き方だ。
省エネ志向の人生と言えば聞こえは良いだろう。
これからは「人生省エネモード」の時代である。
自分にとって本当に必要なことにだけエネルギーを集中すればいい。
頑張っても報われないような社会で頑張り続ける必要はないのだ。
がんばらない生き方を選んだほうが余程幸せだ。
諦めずに頑張り続けるから利用されるのだ。
あきらめることは悪いことではない。
むしろ賢いのである。
ただ人生に必要なカロリーの摂取量と消費量を抑えてバランスを整えるというだけのことだ。
これこそが時代に合ったエコな生き方というものだろう。
「働いたら負け」とはよく言ったものである。
この搾取社会で真面目に働こうとする人間は、はっきり言って愚かだと思う。
副業など愚の骨頂である。
楽な仕事を選ぶことは悪いことではない。
高いノルマと長い残業を強いられる社会が嫌なら嫌と言っていいのだ。
それは甘えではない。
怠け者というレッテルは、無理と我慢を続ける愚かな者たちが押し付ける幻想だ。
有利な地位にある者たちの都合の良いごまかしだ。
狂っているのは社会の方であって私たちではない。
このしみったれた社会にはしみったれた生き方こそふさわしい。
老人や政治家は一体いつまでバブル景気の亡霊を追い続けるつもりなのだろう。
若者はすでにその遙か先を見据えているというのに。
報われない社会をボイコットする
省エネ人生とは言わば労働に対するマイルドなストライキなのである。
省エネ志向は社会に対する穏やかな反抗なのだ。
怒りを爆発させることもできずただ燃え尽きてしまった無気力な人たちによる精一杯の反抗だ。
「不寛容な社会が悪い」「努力が報われない社会が悪い」「労働者を搾取する資本家が悪い」「富裕層ばかりを優遇する政府が悪い」「不平等な社会を変えようとしない金持ちや国が悪い」といった不満を自傷的に訴えているわけだ。
「自分たちが無気力な生き方をするのは社会が生きづらいからだ」「本当に憎むべきは搾取と優遇の恩恵にあずかる富裕層であって私達ではない」「高い消費税だって払っているのだから、国にすがる権利はある」と開き直っている。
「世間からどう思われようが気にならない」「怠け者という罵倒は無理と我慢を続ける者たちの嫉妬にしか聞こえない」「悔しいなら私たちと同じように社会をサボタージュすればいい」と無言の怠業運動を広げている。
「社会のせいで私たちはこうなった」「いつかは生活保護に頼るつもりだ」「社会を変えないともっと大変なことになるぞ」と不器用に訴えかけている。あるいは、すべてを社会の責任にして自身の行動や甘えを正当化しているだけなのかもしれない。
社会をボイコットするニートや引きこもりと何ら変わらない存在だが、働いているだけ幾分ましというものである。
だから日陰に生えたコケのように図太く堂々と生きればいい。休みの日は自由に過ごせばいい。ブックオフで買った好きな小説を読み、ユーチューブで面白い動物の動画を見るのだ。月額500円の動画配信サービスで流行りのアニメや海外ドラマを視聴し、週3で大好きなプリンを摂取してもいい。ドン・キホーテで買ったサメのぬいぐるみと一緒に映画を鑑賞するのもいい。忙しさを理由にして長いことやってこなかったことや出来なかったことをやり、分厚い腹巻きを巻いて行きたかった場所に行けばいい。たまにはサンドイッチを手作りして公園に行ってのんびりと日向ぼっこを楽しむのもいいだろう。昼のフードコートでくたびれたサラリーマンを観察したり、夕方のマクドナルドで女子高生の会話に耳を傾けるのもいい。
この世界で何よりも貴重なものは「時間」である。若い頃の時間はお金には代えられない。時間を得るためのお金も地位も無いのなら、仕事を減らせばいい。減らした時間で沢山の本を読み、美しい映画や音楽、芸術に触れて、感性を豊かにするのだ。好奇心と集中力の続く若い時期だからこそ、それが必要なのだ。年老いた老人たちが得られないものを、我々の世代は堂々と追い求めるべきなのである。
ただ、このようなマイルドニートな生き方を選ぶ無気力の人たちが多数派となった場合、社会は上手く回らなくなって、国は破綻してしまうだろう。だから我々のような底辺予備軍を甘やかすだけのベーシックインカムという制度が早々に実現されることはないのである。
いずれ国はこのような不貞腐った能天気な貧困層への締め付けを強化し、彼らが労働せざるを得なくなるような枠組みを積極的に作り出すようになるだろう。少ない賃金と少ない保証の中で高い税金を払わされ、ただ生きるためだけのギリギリの生活を強いられるようになる。それが嫌なら社会のレールに戻って再び社畜として働き続けろと、暗に道筋を示すようになる。この社会は搾取のカードを振りかざす者たちよりも、貧困のカードを引いた者たちに厳しいのだ。
楽な人生を選んだ先の後悔
豊かな貧困層などというものは単なる幻想に過ぎない。楽な生き方と簡易な快楽ばかりを求める生活はいずれ必ず破綻し、その身を滅ぼす。自由な時間も、大好きなプリンの味も、いずれ蛇口から滴り落ちる水のように当たり前の存在となって、そのありがたみを感じられなくなる。
人生には苦労というスパイスが必要だ。何かを求めようとする欲求と苦労があるからこそ、人は得られた物の価値を実感できる。何かを求めようとする強い意欲や日々の活力がなければ、自堕落な生き方へと陥るだけである。感性は鈍り、雨の日の静けさや、雨上がりの空の前向きな明るさ、夕暮れ時の物悲しさを理解できなくなる。些細なことにさえ感動し感謝する豊かな心は永遠に失われる。
貧しく慎ましい孤独な生活は苦労ではなく単に惨めなものでしかない。だからそういう生活にばかり逃げていると、いずれ他人の些細な幸福にすら嫉妬し抗議する怪獣のような人間になってしまうだろう。
毎日好きなことをし、好きな娯楽にふけるような日々はたしかに楽しそうだが、そこで得られるインプットは社会に還元するためのものではない。インプットばかりの生活にはいずれ飽きが来て、自然とアウトプットを求めるようになるだろう。しかし全てを捨てた人間にアウトプットを行う環境などというものはなく、その絶望の先に行き着くのは、理不尽な正義を振りかざすクレーマーとしての生き方だけである。他人や社会との繋がりを不器用に欲し続ける悲しい怪物のような存在になるのだ。
人並みの感性と自我を失った者の主張を社会は決して受け入れてはくれない。主張は次第に大きくなって、支離滅裂となって、とうとう誰にも理解できなくなる。そうやって、孤独に壊れていく。
豊かな底辺層への憧れ
だから私はこの生き方に憧れはしても、賛同し実践することはないのである。
このような生き方はあくまで仮定の話であり、私の単なる無責任な妄想と無知な憧れに過ぎないのだが、いずれこのような生き方を実践しようとする哀れなロスジェネ世代が生まれてきても不思議はないと思う。もう彼らには失うものも得るものもないのだから。
いやもしかすると、このような志向は、世の中のフリーターや既存の底辺労働者が持つマインドそのものなのかもしれない。
そして私には何故か彼らがとても幸せそうに見えてしまう。
目先の快楽だけを求め、欲しいもののためだけに働く。
将来の不安を考えず、今この時この瞬間を生きる。
私は彼らの刹那的な生き方に嫉妬しているのだろう。
しかしそれは私の根拠のない期待と憧れに基づいたものなのだ。
私は彼らの本当の苦しみを理解していない。
これは無い物ねだりだ。他人の芝生が青く見えている。狭い視野で見た部分的な青さだ。
都会人が田舎の生活に憧れるのと同じように、私もまた底辺の人生に淡い期待を抱いている。
現状に満足できず、自分を不幸な存在だと思っているから、他人の些細な幸福が輝いて見えるのだ。
刹那的な快楽に浸りきった後に迫り来る強烈な後悔の正体にも気づいている。
それを理解していてもなお、私はこの目の前に提示された簡易な自由に強く惹かれてしまうのだ。
会社へと続く大通りを歩いていると、ビルとビルの間の小さな隙間道の先に見える、あの路地裏の世界に引き込まれそうになる。一度踏み込めば二度と引き返せない道であることもわかっているはずなのに、気づくと私はいつもこの小道の前に立っている。路地裏の間からのぞく空の色が気になって仕方ないのだ。彼らの見る空の色と、私の見る空の色に、果たして違いはあるのだろうか。