個人的に、現代オタクカルチャーの最先端はこのVTuber手描き切り抜き文化にある思っている。行き着くところまで行ったなと、感動してしまった。
この文化の何が凄いのか。それは、これらが一見するとMAD的な二次創作物のようでありながら、実際には正統なコンテンツとして成り立っているところにある。行われていることは「原作(世界観) → プレスコ → アニメ」の流れとさほど違いはなく、あまつさえその最終工程をファンである個人が行っていることが先ず以て凄い。ファンがコンテンツ制作の最前線に立つことのできる文化が未だかつてない形で誕生したのだ。個人がコンテンツの世界に直接的ないし間接的な影響力を持てるようになったという意味でも、これは革命的な状況といえる。
しばしばアニメ化が原作に影響を与えることがある。アニメ版のオリジナル設定が原作に反映されたり、作者の絵柄がアニメ版に寄せられるようになるといった影響が見受けられる。クリエイターがお互いを尊重し、刺激し合うことで文化が育まれてゆく。これほど尊いことはない。
映像化は抽象的な世界観をより具体化する作業であり、それはコンテンツの姿や在り方を明らかにしていく作業でもある。この手描き切り抜き動画という文化は、コンテンツのファンに過ぎない一個人がVTuberの世界に影響をもたらすことのできる程の可能性を持っているという意味で、非常に特異な文化であると言える。オタク文化と二次創作文化の一つの到達点がこの手描き切り抜き文化なのである。
ファンによる配信者へのコメントや、この手の二次創作作品には、ファンによる「こうあってほしい/こうあり続けてほしい」という願望が反映されている。そして配信者はしばしばその理像に沿った行動を取り続け、あらゆる願望の具現化に加担するのである。受け手が更なる理想を表明し、配信者がそれに寄せてゆくという相互的な関係によってキャラクターという創造物が育まれていくことに、文化的・宗教的な面白さをも感じる。しかしこの現実は、キャラクターを「演じている・創り上げている」という自覚のない配信者には辛いところでもあるだろう。配信者がキャラクターと自身を同一視すればするほど、受け手の理想は抑圧や支配として映ることになるからだ。そのためVTuberは自身を演者と割り切って活動することによって、この現実に適応して行かざるを得なくなる。キャラクターが人気になればなるほどに演者の主体性は失われてゆく。偶像(アイドル)は大衆の代弁のための装置と化すのである。
この文化をアニラジの世界にまで広げれば、アニラジの在り方さえも変えることができるだろう。この文化によって、既存の「声優がお送りするラジオ」から、新たに「アニメキャラがお送りするラジオ」の登場する余地が生まれる。
私はよくアニラジを、実際のアニメキャラが出演していると想像しながら聴くことがあるのだが、しかしその脳内演出は「声優がお送りするラジオ」である以上はどうしても限界がある。声優はそのような楽しみ方を想定して話していないため、どうしても声優の地声が目立ってしまう形となり、そこで想像と現実の乖離が生まれてしまう。しかしそもそもアニメキャラの声に寄せる行為が、作品の権利上許されるのかどうかも定かでない。声優の個性を売り出したいという声優業界側の思惑もあるだろう。アニメキャラ特有の発声を長時間続けることがそもそも困難であるという問題もあるだろう。そのためVTuber的な発声に寄せる声優も出てくるかもしれない。
手描き切り抜き文化の台頭は、そのような既存の文化の在り方を変えるきっかけや可能性となるという意味でも、まさしく革命的な文化と言えるのだ。