庶民はFIREを目指すべきではない|早期リタイアの罠

持たざる者たちがFIREを目指す必要はない

老後資金のための節約や副業・FIREほど愚かなものはない。やりたいことは若い内にやるべきだ。欲しいものや食べたいものは若い頃に得るからこそ、そのものの高い価値を実感することができる。いつ病におかされるかも分からないその脆弱な肉体でなぜ遠い将来の安泰を望もうなどと思えるのだ。

美食と旅行が良い例だろう。焼き肉や大トロは高いエネルギーを欲する若い頃に食べるからこそそのありがたみを強く実感することができる。旅行は可能性に満ちた若い内にするからこそ価値がある。そこで得られた経験は、その後の人生や考え方に大きな影響をもたらす。リタイア後までやりたいことを我慢する必要はまったくないのだ。禁欲と節約は人生の損失を生む行為であるとさえ言える。

節約によって確保された財の将来価値は、時の経過とともにその価値が目減りしてゆき、従来の価値にまで還元されることは往々にしてない。たとえ禁欲と投資によってそれなりの資産を得ることが出来たとしても、若い頃に得られたはずの経験と失われた若さを取り戻すことまでは出来ないのである。

持たざる者たちが頑張る必要はない

そのため持たざる者が昨今の投資ブームやFIREムーブメントに無理をして乗る必要はないだろう。将来に得られるものの価値よりも、現在で失うものの価値のほうが大きいからだ。ただ経済成長の維持と株式市場の延命に利用されるだけである。いずれ起こりうる株の大暴落で痛い目を見るのは、投資ブームの中で株を売り抜けようとしている富裕層ではなく、投資ブームに乗せられている大衆である(※2)。FIREムーブメントに乗せられて人生の貴重な時間を切り売りするようでは本末転倒である(※3)。投資は既存の生活を犠牲にしない無理のない範囲で行うのが得策である。

大抵の人たちはFIREの実現が地道で困難なものであることを悟り、資金集めのためにリスクの高い投資や商材に手を出すことになる。そのような市場を拡大したいという思惑もまたFIREムーブメントにはあるのだ。キラキラなFIRE達成者を演じる情報商材屋たちも今後必ず出てくるだろう。そして彼らは皆こぞって胡散臭い投資話やノウハウを売り込んでくる。どんなにFIREが純粋な思想であったとしても、それを盛り上げようとしている人たちの思惑がそれに準じているとは限らない。昨今のSDGsやNFTもまたしかりである。いつもの西洋人のまやかしに振り回されてはならない。

そもそもFIREで早期リタイアをした人たちの生活というものは皆一様にして質素であり、その多くはFIREをしていなくても出来るようなことがほとんどである。散歩にしても映画鑑賞にしても、釣りをするにしても、野菜を育てることにしても、別に今から誰でもできることなのだ。遠い将来の精神的余裕を求めることよりも、今この瞬間にやりたいことをやってみるほうがいいのではないだろうか。遠い将来の安泰にとらわれすぎると、今解消すべき欲求や課題を先延ばしにしてしまう恐れもある。

働きたくない人間がFIREを目指すというのも本末転倒である。働きたくないのならフリーターや実家暮らし成人にでもなって将来は社会保障に頼ればいい。そもそも世間体を気にするような人間がなぜFIREなどという人目をはばかるようなライフスタイルを取ろうとするのだ。

働かない貴族のような存在となって勝ち組の地位を実感したいのだろうか。それで表面上の個人的なプライドは満たせたとしても、この社会に生きる一人の人間としての自尊心までは満たせないだろう。

財を成して将来の心配も無くなった状態で伸び伸びと余暇を楽しみたいという考えもあるのだろうが、果たして人生のメリハリを失った状態でその物事を心から楽しめるだろうか。社会との繋がりを失って毎日孤独に竿を磨き続けるような人生に何の悦びがあるのだ。それに資産の価値が変動していくことへの心配や不安とも永久に戦い続けなければならないだろう。子供が旅行に行きたい、習い事を始めたいと言い出したらどうするのだろう。

また理想というものは自身の現在の状況と価値観が生み出す幻想でしかない。そしてその理想が果たされた頃には自身を取り巻く状況も考え方も大きく変わっている。現在の理想が将来の自分にとって最善のものとなる保証はどこにもなく、またその結果を評価するのは現在の自分ではなく将来の自分である。

今を満足しないまま将来への期待ばかりを求めることが、いかにリスクの高い行為であるかは、今一度じっくりと考える必要があるだろう。少なくともFIREは今すべきことを先延ばしにするための存在であってはならないのだ。

この苦難の時代を生きる若い人々は、日々の絶望感ゆえに遠い将来に新たな希望を求めようとする。しかしそれは彼らが本当に心から求めていることなのだろうか。

彼らが真に求めていることは「リタイア後の穏やかな生活」ではなく「苦しい今を逃れること」ただ一点であり、前者の理想は後者の苦しみを解消するための一つの手段に過ぎない。

現代社会の奴隷たちは将来の安泰を追い求め、いつかは自分の好きなことに熱中できる環境と時間を得られると信じて、寝る間を惜しんで労働に勤しんでいる。若い内に好きなことをやろうという発想には至らない。曖昧な目的のためにひたすら盲目的に仕事へ打ち込んでいる。目の前のささやかな幸福に目を向けず、遠く輝くかすかな希望ばかりを追い求めている。

以下の記事より抜粋・加筆

両者には、やるべきことから逃げるか先延ばしにするかの違いがある。やりたいことを若い頃に確実に享受できる分だけ前者のほうが私には幸福に見えてしまう。

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補足

※1 将来の消費によって過去の欲求が満たされることもないだろう。その時には過去の欲求と決別して現状にあった新たな幸せを探すしかない。人は今を生きることによってのみ幸福を実感することができる。
過去の思い出にすがる老人たちは、現在を生きる事によって得られる幸福よりも、過去の記憶によってもたらされる幸福の実感の方が上回ってしまっている状態にあるのではないだろうか。何かをするための気力や体力の落ち込む御老体の身なら当然のことだろう。しかしそれは決して惨めなことではなく、むしろ愛おしむことのできる過去を持たないまま老後を迎えることの方が不幸なのではないだろうか。だからこそ、気力と意識のはっきりとした若い内にやりたいことはやっておくべきなのである。
禁欲によって得られる将来への期待感や安心感にすがるような生き方も十分に価値のある生き方かもしれないが、しかしそれは将来得られる価値の前借りでしかないことは肝に銘じておく必要がある。年金も保険も焼き肉も旅行も、将来それが得られる保証はどこにもない。その頃には死んでしまっているかもしれないし、あるいはそれを楽しめる健康的な肉体と精神が失われている可能性だってある。しかし将来の彼らはその不幸な結果に絶望することなどないのだろう。なぜなら禁欲と投資によって得られる「将来への安心感や期待感」を彼らは日々の充足や幸福としてつまみ食いしてきているのだから。
※2 今後はFIREや早期リタイアへの期待感を煽って一攫千金の儲け話や情報商材を売りつけようとする者たちも増えていくことだろう。FIREの発展版であり、より説得力を増した「サイドFIRE」「パラレルインカム」のムーブメントは情報弱者を囲むための新たな機会として大いに利用されていくだろう。
※3 FIREはもともと海外の思想であり、本来それは若い頃から転職と出世を繰り返して高給を手にすることのできるような有能なビジネスパーソンたちが行うようなものであり、日本の年功序列社会での猛烈な労働と倹約を前提としたそれとは次元が違う。
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