最初、パパ活というものは女性を食い物にしたい男たちが一方的に推し進めた文化だと思っていた。
パパ活が騒がれた当時は、まるで韓流ブームのような、業界人やメディアの偉い人たちがグルになって強引に広めた不気味なブームのように映ったものだ。
ただ「パパ活は風俗の自営業化」であるとして捉えると、それがそうとも思えなくなってくる。
日本が貧しい国になった結果として、女性たちが自らの性的資本を売り出すようになった、というのがこのムーブメントの大きな動機ではないだろうか。なおかつ、その貧しさ故に中間マージンと課税の無い自由な市場が求められたのだろう。
たとえパパ活が業界人によって生み出された作為的なムーブメントであったとしても、それを誰よりも歓迎していたのは他でもない女性たちだったのではないか。パパ活という言葉が生まれていなくとも、同じような動きは生まれていたと考えるのが自然だろう。パパ活は社会状況が生み出した現象だからだ。
女性がお姫様でいられる豊かな世界は、もはや刹那的な水商売の世界でしか見いだせなくなってしまっているというのが、この貧しい現代社会の現状だろう。格差社会によって女性に何かを与えることのできる豊かな男性たちが減ってしまったとなれば、女性は能動的に何かを得ようと足搔く他なくなる(※1)。
衰退途上国の過渡期において女性は今なお見栄を張ることをやめられない。SNSは女性の欲望をどこまでも肥大化させ続けている。貧困に陥った女性たちは自らを満足させるに足る文化的な生活を営めなくなっている。いつしか女性たちは勝ち組男性の有り余る財力に目がくらみ、自らを資本主義の商品として売り出すようになった。
パパ活は女性にとっての生存戦略であり、それは社会からの自立と反抗の姿勢でもある。しかしそのプライドは男性の手のひらでいとも簡単に転がされてしまう。
当時「デートだけでお金が貰える」というカジュアルさを売りに、パパ活というスタイルがメディアを通して広く世間に浸透した。しかし実際のパパ活は女性を売春の道へと陥れるゲートウェイドラッグならぬゲートウェイ水商売のようなものでしかなかった。まるで女性を騙して搾取するために悪賢い男性陣が一方的に推し進めたムーブメントであるかのようにも映る(実際に「パパ活」は交際クラブの業界人が意図的に作り出した言葉であるとも言われているし、早い時期からパパ活仲介サービスも多く乱立していた。当時のスピード感やマスコミでの扱われ方には相当に胡散臭いものが感じられた)。
金で女性を独占できる現代というのは、とりわけ格差社会の勝ち組にいる男性たちにとっては実に都合の良い状況でもある。彼らは一夫多妻を実現するまでもなく、女性を使い捨ての愛人としてインスタントに消費できるような世界を得た。貧しい男たちが使い捨ての玩具で自らを慰めるように、持てる男たちは世の女性を高性能玩具のように扱っている。
「普通の女性」や「ウブな女性」を性の対象にできるパパ活という市場は彼らの支配欲を大いに満たす場でもある。もっともその実情は、もはや「普通ではない女性たち」と「お金のない男たち」の相互依存によって成り立つ騙し合いの世界でしかない。売る側の女性たちが詐欺に遭うケースも多い。
果たしてこの文化は、誰が求め、誰が広めたものなのだろうか。悪いのは女性だろうか、男性だろうか。はたまた社会の必然だろうか。憎むべきは政治か、新自由主義による格差社会を推し進めた権力者たちだろうか。
※1 女性の社会進出はその一つの手段であったが、すべての女性が社会に適応できたわけではなかった。女性解放運動の恩恵に真にあずかれたのは恵まれた強者女性たちであって、持たざる弱者女性ではなかったのだ。持たざる弱者女性は割を食うばかりで、結果自らの体を売らざるを得ない状況にまで追いやられてしまった。当時のフェミニストは優秀な自分たちが認められる社会を求めるばかりで、その他の女性たちのことなど何も考えていなかったのである。万が一の時は福祉に頼らせれば良いと高を括っていたのだろう。一時の犠牲はあっても女性全体の地位が向上すれさえすれば、社会は良くなるはずだと、リベラルは信じて疑わなかった。彼らはトリクルダウンを標榜するネオリベラリストと同じ論法で人々を騙したのである。