目の前で誰かが自死を選ぼうとした時、私は自らの義務と責任において全力でそれを止めるが、しかし彼らの行為を完全に否定することまではできないだろう。
自死は持たざる人間に残された最後の手段であり、社会はそのことの重大さと向き合わなければならないと思う。
社会や宗教といったものの規範や倫理観によって彼らの行為が責められたり否定されたりするべきではない。
社会が彼らの行為を咎めることは、社会が自らの持つ問題から目を背けるということだ。それを続けている限りは、この社会から自死が無くなることはない。
「自殺がいけないのは周りが悲しむから」
しばしば耳にする言説だが、これは当人を縛る他人優位のエゴでしかなく、そんな情に訴えるようなやり方で責任逃れができたと安心されてしまっては困る。周りのことを考える余裕すら持てずに亡くなってゆく者たちに対する社会の責任は誰が果たしてくれるのだろうか。
「他人事だから」「社会を変えたくないから」「ズルいから」「私たちに合わせるべき」「私たちは生物として正しい側にいる」、そんな驕りがあるから人々はこれほどまでに無関心でいられる。「自死を認めたら社会は成り立たなくなる」「自分たちの優位な立場が失われてしまう」「死ぬまでに掛けたコストが無駄になる」「自死が容認される社会で生きるのは怖い」、そんな不安があるから人々は自死を肯定することができない。全ては自分たちのためだ。だから社会は自らの責任を自殺した人々の側に転嫁することしかしない。
「私は自分のために死を選ぶことをせず、ただ同じ苦しみを持つ人々のために自らの使命を全うする」
私はそのナルシシズムに軽い疑念を抱くが、しかしその行為の持つ社会的な意義には確かなものがあると信じている。
自死は社会の営みが生む当然の結果であり、社会はその責任と向き合わなければならない。その義務を果たせていないこの社会に「自殺はいけない」などと軽々しく言う資格はない。
自死は人間の持つ究極の自由であり、倫理はそれを決して否定することができない。だからこそ社会にはその自死をしかるべき姿勢をもって否定する義務と責任がある。