最近のポリコレ映画を観てみた感想|説教臭い再教育番組

なんか全体的に「あざとい」と思った。

最近のハリウッド映画はポリコレありきの脚本になってしまっているように思う。

作品への評価も、ポリコレ的な要素ばかりが絶賛されている。

だからなのかは分からないが、海外コンテンツではポリコレ的な表現が年々露骨になっていっているように感じる。ポリコレに配慮しない作品は賞を受賞できないという風潮や、世間からの圧力が強くなってきているのではないかとも疑いたくなる。そういう全体主義的な空気は歓迎できないし、先が心配である。見たい表現も見たくない表現も多様に表現されていけば問題はないが、一方を重視することによって他方が制限されたり忌避されてしまうような事態は避けるべきだと思う。

20世紀に公開された『ターミネーター』の時には、女性の弱さと、母親になる者の強さをあれほど堂々と描いていたのに、近代の映画は危なげもなく誰にでも受け入れられるような描かれ方がされていて面白みがない。これが理不尽なクレーマーや、声の大きな一部の人たちへの配慮の結果だとしたら残念すぎる。

誰にでも受け入れられる人畜無害なポリコレ映画は「味のしないガム」のようなものだ。口にまとわりつく人工甘味料のしつこい後味だけが感じられる。

今世紀公開の『ターミネーター:ニュー・フェイト』なんて、まるでディズニー映画かと思った。

原作の世界観よりも政治的正しさの方を優先させてしまっているように感じられた。「ぼくの考えた最強の二次創作」の域を出ていない。ポリコレでキラキラにコーティングされただけの小綺麗な続編だ。オシャレなポリコレコーデで周りと差をつけている場合ではない。

個人的には『ターミネーター:新起動/ジェニシス』の方が映画としては面白かったし、こちらの世界線のほうがシリーズ物としては楽しいものになると思う。スピンオフ的なエンタメ映画であり、海外ドラマ風の目まぐるしいドタバタな世界観が鼻につくが、原作愛の強い作品であると感じた。浅い面白い娯楽映画といった印象だ。

対してニュー・フェイトは深い分かりやすい二番煎じ映画といったところだろう。ただ女性そのものの強さを再認識させてくれた点は良かったと思う。母親の強さが描かれていた原作からの世代交代が果たされていた。サラ・コナーが女性をサポートする教育者や父親的な役割を担っていたのが印象的であった。エンディングで嵐の前の不穏な天気が描かれなかった点については残念だが、しかしそれはこの映画が明るい希望と晴れ渡る未来を描き切った完結した作品であることを思わせるものではあった。あるいは先の見えない未来を象徴したかのようなシーンは、未来が決まっていないことを説明するに十分なものであった。暗い困難な社会に対して前向きに羽ばたく女性のための今を生きる映画といったところだろうか。サラ・コナーへの救いも感じられたラストだったように思う。

全体的に素晴らしく丁寧な作品であることに間違いはないが「正統な続編」を名乗るには大げさ過ぎるものがあった。バニラ味かと思っていたらストロベリー味だったかのような作品だ。

この『ターミネーター:ニュー・フェイト』という映画は、人類と機械の生存闘争という壮大なテーマを描いたものというよりは、運命との対峙という極めて内的な世界を描いたものに感じられた。それが人類の進化やアップデート()に繋がれば面白いのかもしれないが、しかしそれをどう現実的に描くのだろうか。今作でその答えは示されていなかったように思う。女性を人体改造して働かせることがその答えだとしたら中々の皮肉である。それを要求する社会がおかしいとは誰も思わないのだろうか。機械による支配と資本主義社会による支配の構造が重なって見える。なぜ我々はその残酷な運命を受け入れ適応しようとするのだろうか。他者を差し置いてでも生き残りたいという種としての利己的な本性がそこにあるとするならば、差別是正や他者共存という上辺だけの偽善的な理想はもはや何の説得力も持たない。

ジェニシスでは擬似的な「父と娘」の愛が描かれていたのに対して、ニュー・フェイトの方は、とにかく「女」「女」「女」で、一貫した主義主張が目立っていた。そのクドさが「作者の自己満足」や「価値観や思想の押し付け」「説教」のように感じられて、作品を純粋に映画として楽しめない原因にもなっている。

もはやポリコレのくどい刷り込みには鬱陶しさしか感じられない。教育番組ではないのだから、そういう臭いインプリンティングはNHKの社会派番組とか、『BS世界のドキュメンタリー』とか、子供向けアニメとかに任せておけばいい。やるならジブリ映画のように巧妙に描いたほうが説得力が増して、自然な形で受け入れられる。

最近のポリコレ映画は露骨すぎて冷める。

ポリコレ的な表現が悪いわけではないし、表現の意図そのものを否定するつもりはない。

ただ、あからさますぎて寒いのだ。
強引さと必死さが感じられてしまう。
まるでプロパガンダ映画を見せられているかのようである。

複数の映画が競うようにして同じようなテーマを描き続けている。内輪のリスペクトと馴れ合いによって映画業界は先鋭化を極めていくが、業界人は誰一人としてそれを真っ向から批判しようとはしない。まるで戦時中の世界である。

芸術性やテーマ性を売りにした作品で急に「笑いあり涙あり」的な安いノリで社会性を押し出されると冷めてしまう。

露骨でいい加減な表現に作者の真意が感じられず、ただただ安っぽい表現に映ってしまう。「こういうのが好きなんでしょ」という忖度や、「これなら文句ないでしょ」という投げやりな感じも伝わってくる。ポリコレのノルマを達成するためだけに取って付けたような、わざとらしい表現にも感じられてしまう。

露骨なポリコレ表現によって、作品の世界から現実の世界に引き戻されるような感覚に襲われることがあるが、あれはあまり嬉しいものではない。

ゴリ押し甚だしいポリコレタイムが始まるたびに、大衆におもねる製作陣のしたり顔が目に浮かぶ。また作り手のエゴが透けて見えてしまう。※3

作者のエゴを押し付けられたキャラクターに違和感を覚える。ボー・ピープ(トイストーリー4)の変貌ぶりに抱いた不気味さはまさにそれだ。既存の価値観の否定に既存のキャラクターを利用するという行為には政治的な態度や作為が強く現れてしまう。そして受け手にはそれが自己の否定や思想の押し付けのように感じられてしまうのだ。作り手にいいように利用され、洗脳されて人格が乗っ取られたかのようなキャラクターに宗教的な不気味さと抑圧を感じてしまう。キャラクターが作り手の操り人形にされてしまっているのだ。それを受け手に悟られてしまっては一流の作品とは言えない。
新たなキャラクターを生み出すならまだしも、既存のキャラクターを改変するようなやり方にも問題がある。それは既存の価値観の上書きであり、正義の押し付けと同じことである。既存の価値観を尊重することなく、人々に一律のアップデートを要求しようとする活動家たちの態度そのものである。新たな表現によって社会を変えようとするのではなく、既存の表現を否定することによって社会を変えようとする姿勢は、極めて傲慢で危険なものである。これではポリコレ的な正義が人々から拒絶されるのも当然といえる。

自分たちの高尚さと慈悲の心に酔いしれる人々の恍惚たる様を思わず想像してしまう。クラスのイケてる集団や、ラブアンドピースな意識高い系の人たちが、流行り物に飛びついてワイワイやってる感じにも重なるものがある。差別の本質を理解せず、ただポリコレ表現を正義ポルノや多様性ポルノとして無邪気に消費しているだけではないのか。正義の側に立つ自分たちに酔ってしまっているのではないか。「弱者を憐れむ自分たち」という地位に安心と心地よさを感じているのでは無いのか。ポリコレ表現が正義感を満たすための娯楽として消費されてしまっているように思う。

弱者を憐れむかのような上から目線の優越的な態度も気になるし、昨今のオリエンタリズム的なマイノリティ賛美には危機感を覚える。彼らは理想像を描くことによってマイノリティのあるべき姿を規定してしまっている。それは差別や支配の構造と紙一重のものである。

何よりも作者のこれ見よがしな意識の高さと主義主張の強さが感じられてしまうのが残念だ。

メッセージ性は自らの意思で見出すからこそ価値があるのであって、それを露骨に提示されてしまえば、途端に陳腐なものになってしまう。

最近のポリコレ映画は映画ではない別の何かになってしまったように思う。

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補足

※1 前世紀の『ターミネーター』や『エイリアン』は、種としての女性を描いた哲学的な作品であったが、今世紀のターミネーター:ニュー・フェイトや、その他のポリコレ映画は、社会的な女性の有り方を強く意識させる思想的・社会学的な作品となっている。描かれる女性の強さというのも、結局は女性の根源的な強さではなく、社会的に求められる女性の強さであって理想像でしかない。あくまでファンタジーなのである。普遍的なテーマを描いた前者は間違いなく後世に残ってゆくが、一方で後者はあくまで時代に寄り添った刹那の作品としてその役割を終え、忘れ去られてゆくだろう。

※2 この『ターミネーター:ニュー・フェイト』という映画は結局の所、何も変えることなく終わってしまっている。自分たちだけが変わっても世界は何も変わらないのだ。主人公は目の前の女性を救うことなく、自身の未来と世界の可能性を選択した。未来を変えることによってのみ女性を救うことができるというその理想は、目の前にいる女性たちの犠牲の上に成り立つ。正しい未来のためには現代の人々の多少の犠牲もやむを得ないというその姿勢は、昨今のフェミニズム運動やLGBT運動が行き着いた急進的な正義そのものである。現代の正義は大きな声を上げた一部の弱者こそ救うものの、全ての弱者を平等に救ってくれるわけではない。

※3 作品内の表現と作者の存在を切り離して考えられれば良いのだが、誰もそれができないからこそ批判は無くならないのだろう。これは作者の意図を汲み取ることなく、あらゆる表現を差別的とみなしバッシングする表現規制派の行動にも言えることである。表現に対する違和感や不快感を作者の悪意へと繋げてしまう短絡的な思考こそが何よりの問題である。

日本の漫画・アニメが世界で受け入れられている理由は、多様性の深さにあると思うのだが、ただそれは最近のディズニーやハリウッドが推し進めている多様性とは明らかに異なっているように思う。欧米の多様性はインテリ・リベラルの求める「理想の多様性」であって「現実の多様性」ではない。同じファンタジーであってもそのリアリティーと説得力には圧倒的な違いがある。コンテンツの受け手は啓示ではなく共感を求めているだけであるのに、欧米のポリコレは未だに上から目線で思想の押し付けを続けている。「こうありたい」ではなく「こうあるべき」という前のめりな姿勢が感じられてしまうから受け手は警戒してしまうのだ。

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