ポリコレは差別をなくさない|政治的正しさは差別で差別で覆う残酷な思想

ポリティカル・コレクトネスはパンドラの箱だと思う。ポリコレは社会の分断と正しさの対立を生み、正義というものの価値と存在をより曖昧で無力なものにしてしまったように思う。

政治的正しさは今後も必要悪としてその存在が保証されてゆくだろう。しかしこの存在は極めて残酷な正義であると言わざるを得ない。

本記事ではポリコレ化する社会の危険性を指摘すると同時に、「政治的正しさ」や「文化の盗用」「肯定的差別」といった社会正義思想の問題点を考察していく。

目次

なお本記事の言うポリコレとは、社会正義の発展と共に多様化したより広義な意味でのポリコレを指すものであり、それは言葉や表現の置き換えに限らず、差別的な文化や慣習を是正する取り込みや、マイノリティを好意的に描く取り組み等を含めたものとなる。また筆者はポリティカル・コレクトネスの意図する理念に一定の理解を示す立場を取っている。もっともポリコレ的な表現は自らの意思で自発的に用いるべきものであると考えており、逆にポリコレ的な正義を他人に強要したり、要求したりする行為には、大きな問題があると考えている。よって本記事では、主にポリコレを扱う側の意識の問題、とりわけ先鋭化した社会正義戦士(ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー)たちのもたらす問題や弊害に焦点を当てていく。

政治的正しさは差別をなくさない

ポリティカル・コレクトネスは差別をなくさない。

そもそもポリコレは差別を表面化させないための存在でしかないからだ。
不快に思う人たちの気持ちに配慮しようという、ただそれだけのことである。

本当に差別をなくすつもりがあるのなら、地道な対話と人々の理解を求めることによって社会を変えようとするはずだ。人々の意識を変えない限り、人間の内なる差別心は永遠になくせないからだ。

しかし彼らのやっていることは、社会の規範を強引に定義し、それを人々に強制することだけだ。
ポリコレに従わない者たちに差別主義者のレッテルを貼って自然淘汰をはかっているだけだ。

これは差別には差別で対抗するという構図に過ぎない。

あまつさえ彼らは悪意のない無知な人たちにまで理不尽な偏見と同調圧力を課してしまっている。
それは古い世代の人たちの価値観や人格を否定することにも繋がりかねない。

差別的な意図を持たないものたちまでもが差別視され軽蔑されるような殺伐とした社会を容認することは、すなわち公共の福祉を乱すものであり、政治的正しさは、その社会秩序の混乱や世代の分断というトレードオフの上に成り立っている。

しかしポリコレによる表現統制は、何の憂慮もお互いの対話もないまま、弱者への配慮と差別の是正という大義名分によって一方的に推し進められてしまう。この強引さこそがポリティカル・コレクトネスの最大の問題でもある。そしてその正義を強要する者たちによる全体主義的な圧力もまた強力である。ポリコレは無限の正義に支えられた無敵の論理であり、このものの否定は極めて困難なものである。

正義のための犠牲

ポリコレの本質は正義の強行と逆差別の正当化である。

ポリコレは長期的な差別を無くすために、物事の短期的な分断と排除を容認しようとする。
正しい未来のためには現代の人々の多少の犠牲はやむを得ないということだ。

強引にでも社会のルールを変えてしまえば、おのずから人々はそれに従うようになり、いずれは人々の差別心も消滅していくだろうという安易な理想である。

たしかに空気を読むことに敏感な日本人の気質には合ったやり方かもしれない。

しかし政治的正しさの行使によって差別がなくなる保証などどこにあるだろうか。

生え続ける竹の子のように、また別の差別表現が生まれるだけはないのか。人間の内なる差別心が無くなることは決してないし、差別を無くすために別の差別を再生産してしまっては本末転倒だ。

差別的な表現を抑え込んでも、結局はまた別の新たな差別が生まれていくだけではないか。
するとポリコレはその新たな差別をモグラたたきのように叩き続けなければならなくなる。
一体いつまでそれを続けるつもりなのだろう。その「戦い」に終わりはあるのだろうか。

人々を縛り付けるポリコレのコードは、次第にその重みを増してゆき、いずれは自らの自由をも抑圧し、身動きの取れない窮屈な社会をもたらす。人権や法律、抑圧的なルールによって担保された見せかけの進歩と平等は、人々の全身に巻き付けられた鎖の量とその頑丈さによって成り立っている。

ポリコレは銀の弾丸ではない

政治的正しさは差別を根絶するための論理では決してない。
我々はポリティカル・コレクトネスを過大評価しすぎているように思う。

ポリティカル・コレクトネスとは、とどのつまりクレーマーの論理であり、それは表現者の意図に関わらず弱者が不快と感じるなら配慮するべきだという、極めて乱暴な論理である。

ポリコレを絶対的な正義と持てはやす世間の風潮はあまりにも危険すぎる。
ポリコレは全ての問題を解決してくれる万能な正義には成り得ない。

コストパフォマンスの高い概念ではあるが、実際は強引さと劣悪さの際立つ粗悪なツールでしかない。その棍棒は手軽で扱いやすいが、バグを生みやすい原始的な道具であり、使い方を誤ると社会を混乱させるばかりか、既存の文化や社会の安定と未来を壊してしまう危険すらある。自分たちの正義を押し付けるための都合の良い道具として、その社会正義が利用されてしまう恐れだってある。

ポリティカル・コレクトネスそのものに罪はないが、しかしそれを使う側の意識に問題があれば、ポリコレの健全な運用は見込めず、その存在は社会正義としての体を成さないものとなる。ポリコレは扱いに注意を要する刃物のようなものであると同時に、人を簡単に脅し殺めることのできてしまう銃器のようなものでもあるのだ。その散弾銃から放たれる無数の弾丸は、悪を駆逐する銀の弾丸ではなく、疑わしき者たちを一律に罰する神の弾丸である。

政治的正しさは偏見と差別を助長する

ポリコレ化した社会では、誰かが差別と言えば差別になる。
それは、本来存在しなかったはずの差別までもが創造されてしまう危険性を孕むものである。

差別が存在しなかった所に余計な差別意識が持ち込まれるようなことになれば、周りの弱者は自分たちが差別されている現実を過剰に意識するようになり、余計な不安にさらされることになる。あるいは強い反発心や憎しみ、社会への不信感を持つようになる。差別が実際に存在したかしなかったかに関わらずだ。

これはまるで火の無い所に煙を立てるようなものである。
あるいは煙の無い所に火を立てるようなものとも言えるだろう。

ポリコレ的な正義を妄信し、正しさを盾に些細なことにまでクレームを付け、気に食わないものを差別と断定して糾弾するような人々も増えている。弱者を装って自らの要求を押し通そうとする者たちや、被害者を装って自らの存在を誇示しようとする者たちへの反感も日に日に高まっている。そのような疑心の広がった社会では、 弱者は猜疑心のもとに軽視される存在となり、最後には本当の弱者の声にすら誰も耳を傾けなくなってしまう。

弱者の立場や権利を濫用して些細なことにまでケチを付けていては、ここぞという時に人々から相手にされなくなってしまう。ポリコレがもたらしたのは、正義に溢れた輝く社会ではなく、圧倒的多くの混乱と無秩序に満ちた絶望の社会だったのではないか。

また近年では、他国の文化の中で生み出されたポリコレ的な正義や価値観が、なんの脈絡もなく国内に持ち込まれるケースも増えている。彼らのやっていることは、一つの基準で世界を統一化することであり、それは他国の文化を壊し、その国の多様性やアイデンティティを奪うことにも繋がりかねない。ポリティカル・コレクトネスは、植民地化やグローバリズムとその本質を同じくして、まるで西洋のための支配様式として機能しているのだ。彼らによる文化と価値観の執拗な押し付けは、民族的な支配欲求の現れであり、それは「我々こそが愚劣な他民族を導かねばならないのだ」という肥大化した自意識の表れでもある。

偏見や差別を意識したこともなかったような人たちが、ポリコレの圧力によって弱者への反発や憎悪の感情を持つようになり、結果的に差別に加担する人々を増やしてしまう可能性もある。社会の中で消えかけていた差別の感情を顕在化させ、その存在を永続化させてしまう恐れもある。

ポリコレの存在が偏見を助長し、差別の切っ掛けを生み出してしまう可能性や、人々の対立をいたずらに煽ってしまう可能性について、我々はもう少し真剣に考えるべきだったのではないか。

差別は想造され利用される

差別という存在は、何かを差別と言ったその瞬間に生まれるものでもある。その差別の形態や発想を認知したその瞬間に、差別心は人々の心の中に深い根を張って居座り始める。差別をしてはいけないと言われたその瞬間から、人々はその対象を「差別され得る存在」として認識し、そのものを対等な存在として見られなくなる。そして人々はその対象を自分たちよりも下の存在、あるいは警戒すべき危険な存在と見なし、差別するのである。

差別を主張する者たちこそがもっとも差別的である、という捉え方もある。何かを差別を感じるその感性は、その者の持つ偏見や内なる差別心に裏付けられたものでもあるのではないか。だとすれば何かを差別と断定して問題視するという行為は、自らの差別心の発露となってしまう。そしてその防衛機制は、当事者の意思を無視した余計な正義感に繋がる。

実のところ、彼らは自らの安心と正義感のために弱者を利用している存在なのである。他人の弱者意識を無責任に代弁し、弱者の権利を不当に利用している。弱者の人権や弱者意識を盗用し私物化しているのである。部外者である彼らの余計な活動によって、当事者への反感が高まってしまう恐れもある。あるいは、彼らによる過剰な問題意識や反発は、偏った認知や偏見をかえって世間に広げるものとなってしまうかもしれない。さらに、彼らの規範に反する者たちは、加害者や差別主義者と決めつけられるようになり、この者たちへの偏見や差別が不当に生み出されてしまうことにもなりかねない。

他人の不満や憎悪を無責任に代弁しようとする者たちによって、人々の憎悪や対立が不当に煽られてしまう恐れがあるのだ。それが売名や金儲けのために行われるようなことになれば、なおさら看過できないものとなる。

差別や権利を主張するとかえって差別が増えてしまうという考え方もある。実際に、弱者意識を盾にして些細なことにまでクレームをつけるような者たちに対して、多数派は大きな反感と敵対心を抱く。たとえその過剰な運動が一部の過激な人々によるものであったとしても、その行為の結果は当事者全体に対する憎悪となって返ってくる。罪のない多くの当事者に対して「面倒な人たち」や「口うるさい人たち」というネガティブな印象が与えられてしまう。その救いようのない誤解によって、多数派と少数派の間の対立の溝はより一層深くなるのだ。

そして最後には誰も当事者の声に耳を傾けなくなる。

弱者意識に甘えて何もかもを自分たちの思い通りに変えようとする昨今の人々の行き過ぎたやり方には目に余るものがある。止まらない暴走機関車のように邪魔物を容赦なくなぎ倒し明後日の方向へと血眼になって前進してゆく彼らには何か常軌を逸した狂気のようなものを感じる。

差別というものの存在にばかり目を向けるのではなく、目の前の差別を闇雲に解消していくのではなく、差別を問題視する側の人々の存在にも目を向けていく必要があるように思う。彼らの抱える孤独や不安と向き合い、共に解決策を見つけていくことが何よりも必要なのではないか。

多数派の意識を変えるだけではなく、少数派の意識をも変えていく必要があるのではないか。変わるべきはお互いであり、どちらか一方だけを変えるべきではないのだ。ポリティカル・コレクトネスにはそういった観点が完全に抜け落ちているように思う。弱者を絶対的な正義と見なし、全ての負担を社会に押し付け、多数派の変化だけを求めようとするポリティカル・コレクトネスは、双方にとって独善的なものにしかならないように思う。

少数派への配慮が正しいとは限らない

一人の弱者の意見を丁重に扱い、何でもかんでも差別と言って非難することの意味を、我々も当事者も深く考えてこなかったのではないだろうか。

不快なものを非難し、そのものを改めれば、その場では安心できるかもしれない。しかしその行為は将来的には弱者の差別や不安を増長する行為にしかならないかもしれない。

一部の弱者が声を上げることによって、その他の弱者への偏見や非難が強まる可能性だってある。一部の人の一時の安心のために、他の弱者たちの平穏な生活や建設的な対話の機会を奪ってしまうかもしれないのだ。

ポリコレによってもたらされた余計なムーブメントによって、その他の弱者がタブーの領域に追いやられ腫れ物のように扱われることの苦しみを、彼らは知らないのだ。ポリコレという正義は声を上げた一部の限られた弱者こそ守るものの、全ての弱者を守ってくれるわけではない。「少数派の中の少数派」あるいは「少数派の中の多数派」のいずれかを無邪気に切り捨て、その者たちに残酷な犠牲を強いるだけである。

同じようにして部外者による無責任な正義感と善意が当事者を苦しめてしまう可能性だってある。

一部の人間の心の問題や気持ちの問題を全体の問題として捉えることの重大さとその責任の重さに、我々はもう少し真剣に向き合うべきだと思う。それは「政治的正しさ」に限らず「文化の盗用」に対しても同じことが言える。

ポリコレは混乱と破壊をもたらす

マイノリティーを扱った表現への過剰な非難によって、マイノリティーを扱う表現の利用そのものを避ける傾向や風潮が生まれてしまい、結果としてマイノリティーの表現や活躍の機会が失われる場合だってある。社会的非難や改善要求、プレッシャーに直面した企業や組織が、表現の改善や精査ではなく表現の排除でもってその要求に答えようとする恐れもある。忌避と萎縮によって表現の存在や多様性が失われていくことの恐ろしさを私達はまだ知らない。

表現の改善を要求をしていたつもりが、表現を無くす行為に加担してしまう恐れだってあるのだ。過度な正義感は弱者への余計なお節介にもなりかねない。表現の普及を阻害し、弱者への理解の機会を奪ってしまっては、弱者の足を引っ張るだけだ。

あるいは仮にマイノリティーの活躍や露出を快く思わない者たちが、このような結果を意図して声を上げ、当事者をそそのかしているのだとしたら、社会正義による過度な規制や監視は、弱者への牽制や抑圧となってしまうのではないか。しかし恐ろしいことに、誰もその悪意のある善意や慈悲的な差別の存在に気づくことはないのだ。

我々は、「絶対的な正義」というものの存在が悪意のある者たちに利用されてしまうことのリスクに目を向けるべきだと思う。

政治的正しさは安易な配慮だ。十分な議論を行わないまま、愚直に弱者の声を受け入れ、勢いだけで社会を変えてしまう。正しいことをしているという正義感で周りが見えなくなってしまっているのだ。

少数派の声を素直に受け入れたからといって、社会全体が良くなるとは限らない。個別に対処すべきことを、全体で対処してしまっては全体の混乱と崩壊を招きかねない。

経営者なら絶対にやらないようなことを、現代の人々は何の思慮もためらいもなくやってしまうのである。一時の安心と満足を選び、長期的な安定と安泰を失うような選択を取り続けている。

生きづらい社会や差別的な社会を自ら再生産している。

ただ目の前の問題をがむしゃらに解消していけば未来が良くなるというわけではない。

ポリティカル・コレクトネスは、おとぎ話のような理想と空想を描き、それを人々に押し付けているだけだ。夢見がちな社会正義論者たちは現実と向き合うことなくファンタジーの世界を求め続けている。

人間の差別心はなくせない

差別を連想させる表現を隠したところで、人類の根源的な差別意識を無くすことはできない。
抑圧された差別心は人々の心の奥底で眠り続け、いずれ再び目を覚ますだけである。
形を変えた新たな差別が生まれるだけである。

本当に必要なことは、差別心と向き合うことであり、差別心を隠すことではないはずだ。

政治的正しさは差別心と向き合う機会さえも奪ってしまう。
汚いものに蓋をして見て見ぬふりをするだけである。

向き合うべき差別心から目を背け、逃げ続けるだけでは何も変わらない。
また同じことが繰り返されるだけだ。

変えるべきは社会よりもまず人々の意識である。
変わるべきはお互いであり、どちらか一方ではない。

ポリコレ論者たちは社会のルールを変えさえすれば、自然と人々の差別心も変わっていくなどと思い込んでいるのかもしれないが、そんなものは理想に過ぎない。その差別心を洗い流すポリコレのシャワーはディストピアの独裁システムと何ら変わらないものだ。一律に並べられた机に子どもたちを縛り付け、その目の前で洗脳フィルムをひたすらに映写し続けるような、抑圧的な世界である。人々の自由と考える機会を奪って人間の本性を浄化しようとするその試みはいずれ必ず破綻する。

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ポリコレ棒で人を叩き、ポリコレコードで人を縛り、ポリコレシャワーで煩悩を洗い流す。彼は神にでもなったつもりなのだろうが、その独裁者のようなやり方はあまりにも独りよがりで醜く、慈しみが感じられない。理性という名の剣で煩悩を断ち切り、対話という名の縄で人々を結びつけるような貴いものでは決してない。不動明王が草葉の陰で泣いているではないか。

ポリティカル・コレクトネスは人々の認識は変えるが、意識までは変えない。

彼らは表現を変えただけで差別を無くした気になっている。
それは非常に無責任なことだ。

問題を先延ばしにし、その負担を次の世代に押し付けているだけだ。
一時の安心と満足のために社会を歪め、壊しているのだ。

彼らの急進的な思想に基づいた正義はいずれ必ず破綻するだろう。

ポリコレは絶望が生んだ怪物

人々が変わらなければ社会は変わらない。
世の中を変えるにはまず個人の意識を変えるべきである。

それが私の至った結論であり、それはこの世の真理であるとさえ言える。

そして人々を変えるためには、何十年あるいは何百年という果てしない歳月と、いくつもの世代交代が必要不可欠だ。我々は漸進的に緩やかに社会を変えていくほかないのである。先人たちの理想と意志を引き継ぎ、地道に社会を変えていかなければならない。

しかし正義の革命家たちはその理想を早急に求めようとするあまり、政治的正しさという極めて残酷な正義を選択してしまったのである。

その選択の先にあるのは、文化の崩壊、そして文明の衰退と消滅である。

棒で人を叩き、縄で人を縛り、絆ではなく傷ばかりを深め合うような社会を、我々は望むべきではない。

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