2億年前に書いた記事が今になってバズってる。
ツイッター言い回し辞典|2億年ぶりに食べた焼き肉が旨すぎて無限に震えてる
ツイッター上で炎上しそうな勢いで盛り上がっていて一人で震えてる。
個人的には「刺さりすぎて貫通しました」という反応が面白すぎて腹抱えて笑った。
面白すぎて1000回は読み返したし、好き過ぎて今プリントして壁に貼ってる。
あと、八百万の神には思わずハッとさせられた。
わかりみが深すぎて海底に降り立ってる。
今後は負けじと八百億の神を積極的に使っていきたい。
目次
- 人々の反応とネット民の変化について(イキリ長文考察)
- 誤った伝わり方がされてしまった件について
- あの記事の本質について
- あの記事の過ちと後悔について(クソデカ長文)
人々の反応とネット民の変化について
記事内で紹介された若者言葉に羞恥心を抱く者たちの姿も散見されて感慨深い。
昔も今もネットは何も変わっていないのだなと安心させられて思わずホッとした。
「2ちゃんねる」の時代にも、「ニコニコ動画」の時代にも、同じようなスレッドが立てられ、同じような感想が呟かれてきた。
反発する人もいれば、自虐的に受け入れる人もいた。
それらの反応が、今も昔も変わっていないことに鳥肌が立った。
最近の若者はネット文化に毒されていることに気づいていない
ただ一つ変わったことがあるとすれば、それは、彼らにはネットスラングを使っているという自覚が薄いということだ。
彼らが抱いた「羞恥心」は「流行に流されている自分」や「ステレオタイプ化した自分」を自覚してしまったことへの恥じらいかもしれない。
それは、「イケイケ」や「チョベリバ」というキテレツな流行り言葉を用いる平成デジタル世代や、奇抜でナウいファッションに身を包んだ昭和の「竹の子族」に抱く、あの何とも言えない違和感と同等の感情や、俗物感、古臭さを、現代の自分たちの振る舞いの中に見出してしまったことへの恥じらいである。
2ちゃんねるやニコニコ動画の時代では、それを自覚する機会は少なかったように思う。あの頃はまだネットとリアルを切り離せる時代だったからだ。
しかし準匿名的な現代では、相手の存在と自身の存在を強く意識させられる。ネットとリアルの境界は曖昧なものとなり、もはや現実の世界においてさえも、ネット上の表現をカジュアルに利用するようにまでなった。
人々は、現代のモードがオタクコードやインターネット文化の延長線上に成り立っていることにさえ気づかず、無邪気にそれを消費している。まるで人々が総JK化してしまったかのようである。
誤った伝わり方がされてしまった件について
あの記事は「ツイッター上のオタクや若者がよく使う言い回し」という趣旨で書かれたものだが、今回の拡散ではその趣旨が正しく伝わっていなかったように思われる。
拡散された当該記事のキャプチャー画像には「オタクや若者がよく使う言い回し」という不十分な情報が記されていたため、それによって、それらがまるで「現実世界のオタクや若者がよく使う言い回し」であるかのように人々に受け止められてしまっていた感がある。
拡散されたツイート:https://twitter.com/himeroco_HYP/status/1314532905918455808
当該記事そのものに対する人々の反応については、その点の語弊はほとんど見られない。
記事への反応:https://twitter.com/search?q=https://marycore.jp/net/twitter-sentences/
もっとも、オタクという属性を不当に利用してしまった点にそもそもの問題があったのではないかとも感じており、その点については記事の後半でじっくりとクソデカな長文を以て釈明していきたい。
あの記事の本質について
ちなみに、あのシリーズは、もともとは古参のツイッタラーやオタクに向けて書いた記事なのだが、なぜだかツイッターの若者の間で流行ってしまった。
現代のネット空間には、賢いオタクや、感性豊かな女オタク、その他の先人たちが生み出してきた洒落た表現や奥ゆかしい表現が蓄積されており、大衆はその希少な表現や語彙を無邪気に浪費している、という構図がある。あの記事は、そのようにインスタントに消費され消耗されていった表現の有り様を示唆する意図を持って書かれた。「粋がる」を「意気がる」《粋であるかのように振る舞う》と書いたのは、粋という本質を遠ざけたいという意図があったためだ(いま考えた)。
あの記事はオタクの自虐であると同時に、大衆への皮肉でもあるわけだ。
あれはオタク的な文脈が大衆文化に取り込まれた後に溶解を極めたそれを、オタクが逆輸入し自虐的かつ他虐的に用いているという構図の元に成り立っていたと言える。
あるいは、現代の人々は過去の先人たちの築き上げてきた文化の上に立っていることを自覚しようと、そう伝えようとしていただけなのかもしれない。
なお、若者の共感性羞恥を煽って文化を衰退させるようなことになるのは、当方としては不本意なものであり、したがって現世代は今後とも胸を張って表現の多様化に努めてもらいたいと願うものである(謎の上から目線)。
文化には批判が必要である。内輪のリスペクトと馴れ合いだけでは文化は衰退していく一方だ。批判なくして文化の発展と継続はない。
おっと拙者としたことがww小生、長々と話しすぎましたな(笑)
我輩まるでイキリ長文オタクkwwデュフwwwコポォwww
ちなみにこれは以前ちょまど氏のリツイートにより少々バズったものです、ご査収ください(急に真顔に戻る)。
ツイッター表現辞典|番外編【なう、にゃーん、尊い、その他の表現】
あの記事の過ちと後悔について
ところで、一つ謝っておかなければならないことがある。
それは、あの記事で「オタク」の定義を広く捉えてしまったことだ。
そして「オタク」という言葉を不当に強調してしまった。
あれは単に「若い世代」とするか、せめてでも「ツイッター上のイキりオタク」と明示しておく必要があったと思う。
そもそも多様化する現代では「オタク」という属性は明確に区別されつつあるのかもしれない。二次元のソシャゲやラブライブに夢中になっている現代の若者でさえ、もはやオタクという属性では一括りにできない存在になりつつあるのではないか。
あの記事ではサブカル文化に親しむ「ニワカ」や「イキリ」「ラブライバー」「陰キャ」「ソシャゲ民」「アニオタ」「ニコ厨」「淫夢厨」「腐女子」「嘘松」の総称として「オタク」という言葉を乱暴に用いてしまったが、それが若干の誤解に繋がってしまったのではないかと懸念している。
加えて、あの手の表現を用いる現代の陽気な若者たちを「オタク認定」するような記事になってしまったことにも、若干の反省を抱いている。もっとも、あの記事は数年前のアーリーマジョリティを想定して書かれたものであり、当時はあの手の言い回しがオタク的な趣味を持つ若者たちの間で広く使われていたという経緯がある。
とは言いつつも、非オタの若者もまたあの手の言い回しをカジュアルに利用してきたというのも事実であるし、むしろツイッターの臭い言い回しを広めたのは、他でもない、イキり回る彼らや、バズり高ぶるアルファツイッタラー達だったのではないかとも思う。そしてそれを見た陰キャやオタクが、無理をして強がって、ある種自嘲的に、それらの身の丈に合わないノリや言い回しを用いている構図もあった。そしてあの記事には、そのようなオタクの颯爽たるイキり様を表現する意図が確かなものとしてあったのだ。
「意気がっているオタク」という意味で用いられる表現。いわゆるオタクの性質を濃厚に備えており、当人も自分がオタクであると認めてはいるが、他方で私生活の充実ぶりをこれ見よがしに主張するような傾向もあるような者に対して用いられる。
とにもかくにもオタクという属性をいたずらに強調してしまったことについては、完全に配慮に欠けるものあったと反省している。
そして何よりも、あの手の臭い言い回しに抱くある種の不快感とその責任を、オタクという属性に転嫁するような流れを作ってしまったことに、多大な責任を痛感している。オタクという属性が明確に区別される時代になりつつあるのなら、その責任はより一層重く受け止めなければならないだろう。
今にして思えば、あれは「オタク」ではなく単に「若い世代」や「イキリツイッタラー」「SNS世代」とするべきだったのではないかと後悔している。そのほうがもっと深く確実に刺さっていただろう。もっとも2年後の現代の価値観においては、それでもやはりそれなりの反発というものが想定される。あの記事は、オタクというサンドバッグが間に挟まっていたからこそ好意的かつ自嘲的に受け入れられたのだと思う。
あの手のテンプレートを扱う人々は、もはやスクールカーストの中央部から上部に位置するような者たちや「陽キャ」「リア充」に取って代わられ、そして「陰キャ」や「オタク」はそれを嫌悪する側に回りつつあるのではないか。オタクコードの残り香が感じられる昨今の表現も、いずれはその本質を失い、完全に大衆的なものへと成り下がっていくのだろう。現代の人々は各々の言い回しを共通のフレームワークとして捉え、それを以てコミュニケーションの円滑化を図っているわけだが、しかしその言い回しを嫌悪するということは、すなわちそれを扱う共同体を嫌悪していることの現れともなることを忘れてはならない。(フレームワーク言いたいだけ)