若者は自分を変えた。社会はどう変わるか

出世を嫌がり、飲み会にも参加しない現代の若者像が問題視されているが、これは「社会が変わらないから若者が自分たちを変えた」ことの結果ではないだろうか。

彼らは社会にこき使われるこれまでの若者像を改めて、社会と極力関わり合わない生き方を取るようになったのだ。

社会はあまりにも若者を酷使し続けてきた。その結果、とうとう若者たちに我慢の限界が来てしまったのだろう。

今の若者たちは、ネット上に垂れ流された社会人たちの愚痴や、自分たちの身を守るために社会を降りた引きこもりやニートたちの有り様を目の当たりにして、この社会の生きづらさというものに薄々感づき始めている。でも若者は彼らのような堕落した人間にはなれない。社会に出たくはないが世間がそれを認めてくれない。だからこの譲歩案として、現代の若者は「頑張りすぎない」生き方を見出したのだろう。それは現代の若者の人生に対する「諦め」の姿勢と言えるが、しかしそれは「危ない橋を渡らない」自己防衛の賢い選択として正当化されてゆく。現代の若者が過度に「失敗」を恐れるのは、その失敗の先にある恐怖がありありと見えてしまっているためだろう。

失敗すれば「自己責任」や「甘え」などと言われて責められる社会だ。若者はそんな社会に呆れ果てている。そんな社会の中でも若い世代は何とかして自分たちの主導権を取り戻そうとしている。

タダ同然の娯楽が溢れるこの時代に働く暇なんてものはない。
苦労して働くことが割に合わない時代だ。労働はコスパが悪い。
保険に入らず家庭も持たなければ一人で十分に生きていける。
責任を負わない生き方こそが最も気楽で安心な生き方である。
年金生活が期待できないのなら今を楽に生きることを考えるより他ない。

若者は落ちぶれたのではなく賢くなり過ぎたのだ。

「世の若者に不満があるなら社会を変えろ」

無気力な彼らの生き方にはそんな不満と社会への強い態度が表れている。

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