ゲーム産業へのバッシングと飽和する資本主義社会

なんだか最近、ゲーム産業へのバッシングが酷くなっている気がする。

中国の国営メディアはオンラインゲームを「精神的アヘン」と批判しているし、イギリスの高級紙は「大人の男性はゲームで人生を無駄にするべきではない」と主張している。(※1

いずれも支配層の世迷い言にしか聞こえないのだが、要するにあれは「ゲームばかりしてないで、もっと社会のために働け」と言いたいのだろう。そんな支配層の焦りが透けて見えてしまう。

もっともこちとら不毛な労働なんてしたくはないし、余計なお世話なのである。今の時代は頑張って働いても会社や資本家が得をするだけだ。安い給料と高い税金のためにひたすら働くよりも、ゲームをしているほうが楽だし、楽しいことに時間を割いたほうが人生の満足度は圧倒的に高くなる。

だから生涯資金のための節約や副業・FIREなど愚の骨頂なのである。やりたいことは若い内にやったほうがいい。欲しいものや食べたいものは若い頃に享受するからこそ、その高い価値を実感することができる(※2)。いつ病におかされるかも分からないその脆弱な肉体でなぜ遠い将来の安泰を望もうなどと思えるのだ。

ゲーム産業というのは、我々のような「意識が低くて向上心のない頑張ることが嫌いな人たち」の逃避行動によって支えられてるところが大きいように思う。「やるべきこと」や「やりたくないこと」から目を背けるためにゲームに没頭してるような人たちは、相当多くいると思う。そういう者たちにとってのゲームというのは束縛であると同時に究極の自由でもあるのだろう。そしてそのゲームに逃避する様は、まるで社会に対するストライキのようにも映る。

これだけ安価な娯楽が充実した時代であれば、働くことの意味は薄れて当然であるし、だからこそ、これからの時代はいかに余暇を確保するかが重要な課題となっていくのだろう。今の時代は働いている暇なんてないくらいにコンテンツが溢れているのだ(※3)。月額500円で映画やドラマ・アニメが見放題という驚くべき時代である。この社会の物質的な豊かさもまた完璧に満たされた状態にある。物で溢れた社会が実現されたことによって、人々は労働に価値を見いだせなくなってしまった。

現代はお金よりも時間こそが何よりの価値を持つ時代である。そのため人々の就業意識はこれからどこまでも下がり続けてゆくだろう。働かない人が増えれば賃金も上げざるを得なくなるから、ケインズが予想していた週15時間労働もいよいよ現実味を帯びてくる。

これからの時代は既存の資産を消費していく時代になっていくのだろう。新しいものが生まれにくくなる代わりに、既存のコンテンツをアレンジしたものや再生産したもので溢れるようになる。物が安くなり、人々が働かなくなり、人々は既存の資産にすがって生きるようになる。おそらくそれが飽和した資本主義社会の行き着く先なのではないだろうか。

※1 それを言うならSNSのほうがゲームよりもよほど害悪だと思う。もっとも大衆のコントロールに利用できるSNSメディアを彼ら支配層が批判できるはずもない。
※2 美食と旅行が良い例だ。焼き肉は高いエネルギーを欲する若い頃に食べるからこそそのありがたみを強く実感できる。旅行は若い内にするからこそ価値がある。そこで得られた経験は、その後の人生や考え方に大きな影響をもたらす。リタイア後までやりたいことを我慢する必要はまったくないのだ。節約は人生の損失を生む行為であるとさえ言える。節約によって確保された財の将来価値は、時の経過とともにその価値が目減りしてゆき、従来の価値にまで還元されることは往々にしてない。たとえ節約と投資によって大きな資産を得ることが出来たとしても、若い頃に得られたはずの経験と失われた若さを取り戻すことまでは出来ないのである。
※3 その分ハズレを引かされる確率も高くなるが、その点は信頼のできる口コミや自らの情報精査能力でどうにでもなるし、今の時代は堅実な過去のコンテンツも安価で手に入れられる。思うに昨今のレトロブームやリバイバルブームというのは、流行が一周回ったことによる真新しさが受けている面も強いのだろうが、実はそれと同時に、これは情報過多のネット社会によってコンテンツが飽和し細分化と高度化を極めるばかりの昨今において、人々が大衆性や堅実性を重視するようになった結果としての現象でもあるのではないだろうか。新しいものを探し出したり、生み出したりするよりも、過去の資産を流用するほうが少ないコストで済むから、これはお金のない受け手と気力のない売り手の双方にとっても都合が良い。
それに現代というのは、優秀なクリエイターが一つの流行に集まるような時代ではなく、彼らは分散した需要と細分化された各々の流行やジャンルの中で自らの存在を誇示するに留まってしまい、それ故に完成された集約的なメジャー文化も育まれにくくなっている。作り手は各々の小さな環境の中で満足してしまい、多様な作り手と関わり合う中で生まれる刺激も切磋琢磨も十分に得られないために、各々の文化にはその成長に限界が生じている。そして大多数の人々が理解できないような高度な文化ばかりが生み出されている。逆に、昭和の時代というのは、ネットもなく、表現の場も限られていた時代だったからこそ、膨大な需要や資金、優秀な人材は一つの環境に集約され、そしてそこで頂点を極めた者同士のお互いの高め合いによって優れた文化が育まれていった。現代の人々が過去のコンテンツに魅了されるのは、そのような環境の中で育まれた「完成された文化」とその成熟性を求めていることの表れなのではないだろうか。
昨今ではEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)の次の流行が見つからないと言われているが、それはメイン文化のベースとなるサブカルチャーが多様化し過ぎたために文化の集約と統合のペースが緩やかになってしまったことの結果なのかもしれない。つまり文化の土台があまりにも横に広がり過ぎてしまったために、あらゆるリソースが分散し、各々の文化の体系化と成熟のスピードは落ち、主流文化の形成にも時間が掛かってしまっているという状況なのである。そしてその新たな文化の醸成が時代の流れに追いついていないために、人々はその代わりとなる過去の完成された文化を求めるようになったのではないだろうか。過去のものが求められるようになったということは、すなわち現代の成長が頭打ちになってしまったということの表れでもある。
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