クラシック音楽を退屈にした原因

クラシック音楽が退屈と言われる原因は、聴き手に求められる物が多く理解が難しいためであることは元より、ロマン派の音楽や「交響曲」「オペラ」「バレエ音楽」等のオーケストラ曲の、存在感の高さにもその原因があるのではないだろうか。

小規模で短い曲ならもっと聴きやすくて楽しいものが沢山あるのに、前者の存在感があまりにも強すぎて、クラシック全体の印象を押し下げてしまっている現状があると思う。

交響曲は沢山の楽器が一斉に鳴っていてゴチャゴチャしているし、メロディーがはっきりとしないし間延びしているように聴こえるし、間奏が長すぎたり、展開が遅すぎたりする。何よりサビまでが長い。音量の振れ幅や音域の高低差が大きすぎて安いスピーカーだと聞きづらい。

ピアニストが世界的なコンクールの最終選考の舞台で披露するような、難しい系の曲も得てして退屈だ(あれの凄さや奥深さは業界人だからこそ理解できる類のものだろう。一般人は彼らの技量や表現力に称賛を送っているのではなく、ただ受賞という分りやすい実績と信用に称賛を送っているに過ぎない。これはアスリートの世界と何ら変わらない)

私はこういった情熱的で油ギッシュな競い合う音楽や大迫力の音楽がすこぶる苦手で、どちらかというと小さなホールや教会で演奏されるような、落ち着いた小規模の音楽の方が好きだ。オーケストラ曲はバロック時代のものや、一昔前の映画音楽くらいまでなら聴ける。映画音楽は短く分かりやすく聴きやすいところが良い(※1)。

バッハ:ブランデンブルク協奏曲 第3番|BWV1048
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「古典派」のモーツアルトのような、軽快でメロディアスなソナタやオーケストラ曲は聴けるが、過渡期のベートーヴェンのような大げさでやかましいオーケストラ曲は聴けない。ああいったけたたましい音楽はどうも苦手だ。

後の「ロマン派」の音楽も冗長的でもどかしい。感情の起伏も激しく安心して聴けない(※2)。ただその次の時代の「近代音楽」はメロディーラインが素直で展開も分かりやすいため、だいぶ聴き易くなっている(現代の音楽に通じるものがある。全体を通して一貫したテーマを感じさせてくれるのが良い。それらの点は古典派やバロック時代の音楽と共通するものがある。まるでロマン派へのアンチテーゼとなっているようにも思えてくる。クラシック音楽というのは否定とリスペクト、進化と回帰を繰り返しながら発展してきたものなのだろう)。

モーツアルト:クラリネット協奏曲 第3楽章|K.622
https://www.youtube.com/watch?v=_skCmkwnMgs
ラヴェル:組曲 クープランの墓
https://www.youtube.com/watch?v=hQXnk8BUQRg

エルガーの「愛の挨拶」のように、楽器一本とピアノ一台で、キャッチーなメロディーを奏でるような、そういったクラシック音楽が好きだ。老人から子供まで、誰もが理解して楽しんで聴けるような、そんな音楽だ。歴史や文化、文脈、物語を知らなくても感動できるような音楽こそが理想の音楽だ。

エルガー:愛の挨拶
https://www.youtube.com/watch?v=eRUudIrwM-g
ラフマニノフ:ヴォカリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=hiT_v5DOsUw

速くてカッコいい曲を求めているなら、ロマン派の感情的で大げさなナルシスティックな音楽よりも、バロック時代の淡々としたスタイリッシュな音楽をオススメする。ロマン派のような迫力や狂気はないが、とにかく優雅で色っぽい。

バッハ:インベージョン13
https://www.youtube.com/watch?v=Ocb9IVLkrkI
ヘンデル:調子の良い鍛冶屋
https://www.youtube.com/watch?v=wgd9fat28I4

クラシック音楽は権威性や高尚さ、自らの価値を求めすぎた故に、高度化と複雑化を極め、その結果、大衆はそれに付いていくことができなくなってしまったように思う。クラシック音楽は近寄りがたい存在になってしまったのだ。文明社会が複雑化したのと同じように、クラシック音楽もまた複雑化しすぎたのである。(※3

※1 ただ映画音楽というのは現代版のオペラみたいなものだとも思う。劇に合わせるか、映像に合わせるかの違いでしかない。オペラを曲だけ単体で聴けば退屈になるのも当然と言える。かつて「映画音楽は正統なクラシック音楽ではない」という類の批判をしていた音楽家がいたような気がするが、オペラがクラシック音楽の系統なら、映画音楽もまたクラシック音楽の系統と言えるのではないだろうか。娯楽の中心が劇から映像へと移り変わった時代の音楽であるということの意味を考えれば、映画音楽がクラシック音楽の系統かどうかなど言うまでもないことだ。ただハンス・ジマーはこの近代の聴きやすい映画音楽を劇的で退屈な物へと立ち返らせてしまったように思う。私はやはりジョン・ウィリアムズのような音楽の方が好きだ。作品を知らなくても情景が思い浮かぶような音楽だからなおさら良い。大昔の人たちもオペラ音楽を通してその情景を見ていたのだろうか。あるいはハンス・ジマーの作り出す世界のような、劇的なものを見ていたのだろうか。もっとも現代の私がオペラやロマン派を理解できないのは、私があの時代を生きていない人間だからだという懸念は拭えない。

※2 バロック期の音楽はまるで「自然」や「真理」が表現されているかのような印象を受けるため興味深く聴くことができるが、ロマン派の音楽は「自分」が表現されているように感じるため、あまり興味が持てない。私がロマン派の音楽を受け入れられない理由は他人に興味がないからなのかもしれない。あるいは自分がナルシスティックな性格だから、彼らの表現がまるで自分ごとのように気恥ずかしく感じてしまうのかもしれない。これはちょうどJ-POPやボカロ曲に感じる恥ずかしさと同じもののように思える。自らの感情が恥ずかしげもなく表現された彼らの音楽は、私には刺激が強すぎて耐え難い。私はボカロ曲やポップスが苦手であることと同じように、ロマン派の音楽が苦手なのである。

※3 現代音楽は高度化の最たる例である。思うに現代音楽というのは「過程の音楽」であり、その迷走の果てにあるものを模索することが現代音楽の意義であり役割であると言えるのではないか。その果てに何もないことを悟り、従来的な音楽へと回帰することによって初めて現代音楽は完成される。現代音楽は文明の限界を証明する壮大な試みと言える。この先、クラシック音楽の革命と回帰はどちらが先に起こるだろうか。現代音楽は革命だろうか、それとも停滞だろうか。現代音楽というものは、私には、よくある「ネタ切れで迷走し始めたアーティスト」の生み出す作品みたいにしか見えない。難しい言葉や世界観で人々を欺くアートやNFT、情報商材のようにしか見えない。現代音楽は虚業ではないか。

現代音楽は、そのエッセンスを曲中に適量取り入れ、曲の緊張と緩和を演出するために利用するくらいがちょうどよいのではないだろうか。現代音楽というのは醸成された原液のようなものであり、それを直に飲みたいと思う人は少ない。人々が本場のディープなクラブミュージックやジャズ演奏を聴きに行かないのと同じことである。この手の高度化された文化は、良いとこ取りによってその一部が主流文化へと吸収される宿命にある。不安定な音楽から安定的な音楽へと移り変わる、その瞬間のカタルシスを、大衆は待ち望んでいる。

「交響曲」や「オペラ」等のオーケストラ曲が退屈な理由は、感情の起伏や作品の物語が数十分間という長い時間を掛けてじっくりと表現されているところにあるのかもしれない。不安な展開が長く続けば続くほど、後の展開のもたらす解放感はより強いものとなる。そのカタルシスや没入感を生み出すには、どうしても長尺にならざるを得ないということなのだろう。ただそれはシリアス展開が数話も続く2クールアニメのようなものであり、暇がなくメンタルも弱い現代の労働者には荷が重い。不安な展開は「安心の人生」や「期待の人生」を生きている人間だからこそ楽しめるのだ。それは豊かな国の人々が紛争地域の人々の不幸を憐れむのと同じことだ。温かいコタツの中で被災地の不幸を憐れみ涙することもまた幸福の享受の一貫に過ぎない。その涙の裏には安全な環境や地位を持つ自分たちへの罪悪感が隠れている。彼らが千羽鶴を折るのは、その罪滅ぼしのためだろう。とにもかくにも、不安の時代を生きる私たちは、長時間の不安表現に耐えることができない。音楽は数小節の展開で緊張と緩和を表現するくらいが丁度よいのではないだろうか。なんなら1小節でも十分かもしれない。

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