VTuberは二次元の存在だろうか|神を演じる巫女について

VTuberの演者は二次元的な存在と言えるだろうか。

少なくともアニメ絵のアバターは紛れもなく二次元キャラとして描かれている。

しかしそれを演じている中の人はどうだろう。

現実世界に存在する一般人と何ら変わらない喋り方・笑い方をする彼らは、しばしば二次元とは程遠い存在のように思えてしまう。

演者が時折見せる人間的な生々しさと接する度に、彼らが抽象的な「二次元」という理想像から掛け離れた存在であることをつくづく思い知らされる。彼らはただの血の通った人間に過ぎない。

しかし本当にそうだろうか。

むしろVTuberの魅力は、そのアバターの裏に透けて見える人間性や生々しさ、ギャップにあり、人々はその目に見えない部分にこそ思いを馳せているのではないか。

そして、まるで顔の見えない文通相手に思いを巡らすかのごとく、人々はVTuberの演者に幻想を抱いているのではないか。人々の思い描く幻想や妄想、理想像こそが二次元の根源にあるものなのではないか。

「きっと中の人はこんな人に違いない」と各々が想像し理想像を作り上げている。演者もまたしばしばその理像に沿った行動を取り、虚構を生み出す。演者の「こうありたい」という理想像、そしてファンの「こうあってほしい」「こうあるべきだ」という押し付けの理想像、それらの理想像を具現化したものこそが二次元的な存在と言えるのではないか。

だとすればVTuberやアイドル、漫画絵、フィギュアはその理想像をかたどって作られた偶像のような存在であると言える。そして中の人は、その理想像を表現する存在である。この表現された存在を求めるか、表現者そのものを求めるかによって、VTuberの見え方は大きく変わってゆくが、私はこの両者に大した違いは無いと思っている。だからどちらも同じように魅力的に思えるし、むしろ入れ代わり立ち代わりする両者の揺らぐような不安定な有様に、VTuberの魅力と、人々を惹きつけてやまない理由があるのではないか。

しかし私は、この形作られた二次元的な存在よりも、そしてその表現者よりも、よりその前の段階にある根源的な存在に強烈な魅力を感じるのである。

というのも、VTuberもアイドルも、それらは人々の脳内に宿る存在とは実感し難く、むしろそれは紛れもなく実在している存在(いずれ必ず理想と現実の齟齬を突きつけてくるであろう存在。意思を持ちコントロール不可能な存在)であり、あまつさえそれが表現者と不可分にあるという意味で、もはや理想的な二次元ではないのである。VTuberは自分たちの中にある完成された二次元象を想起させる存在ではなく、あろうことかその理想像を上書きして毀損させる存在でもある。

私の求める二次元的な存在の根源にあるものは、神や妖怪のようなものであったり、またはもっと曖昧でボヤけた存在(いくつかの理想を集合させ平均化した存在)であり、それは、どうにか例えるならば、「夏の田舎道で出会う白いワンピースの少女」のようなものであると言える。実際にそのような存在を見聞きしたわけではないはずなのに、脳内ではその存在を確かにイメージすることができる(あまつさえそのイメージをまるで共通認識として同志と共有することさえできる。自分の見え方や理想を他者へ広めたいと思わされる。あらゆる手を尽くしてそれを具現化したいと思わされる)。そんな決して手の届くことのない存在、触れることすらできない存在、心の奥深くに刻まれ拭うことの許されない存在、それこそが二次元の根底にあるものなのである。

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