「黒人への差別的表現」や「アジア人のツリ目表現」を過剰に非難する白人がいる。
差別される側ではない白人の彼らが、なぜそこまでして差別表現を非難するのだろうか。
そこには「正義感」だけでは説明のつかない、何か複雑な動機があるような気がしてならない。
思うに、彼らは自らの差別感情や嫌悪感を遠回しに発露しているのではないだろうか。
差別表現を糾弾する者たちは、嫌いなものを嫌いと言えないがために、別の方法でその憎悪を表現しているとも考えられる。
差別表現を非難する者たちの中には、マイノリティを腫れ物のように扱うことによって間接的にマイノリティを傷つけようとする陰湿な者たちもいるかもしれない。「醜い彼らの真似をするな、可哀そうだ」「マイノリティ様がお怒りになるぞ」と言って遠回しにマイノリティへの嫌悪を吐露し、揶揄し、内なる憎悪や不満を発散しているわけだ。
彼らはマイノリティの不満を無責任に代弁しようとするが、それはマイノリティをけしかけて人々の対立関係をいたずらに煽るようなものでもある。マイノリティに「口うるさい少数派」や「面倒な人たち」という悪い印象を持たせ、多数派の敵対心と差別心を不当に煽ってしまっている。
なにより恐ろしいのは、それらが無自覚に行われているかもしれないということである。不快なものを間接的に傷つけ排斥するための行動が無意識のうちに取られてしまっている可能性が考えられる。
時に差別表現を非難する者たちは、マイノリティを美化する表現にさえ批判の矛先を向けようとする。自分たちよりも劣った存在が注目され認められ称賛されることが気に食わないのだろうか。表現によって劣った彼らを連想させられてしまうため、それが不快で目障りに感じられているのか。主体的に振る舞う生意気な彼らを憎たらしく感じているのか。あるいは「劣った彼らがこんなに優れた存在であるはずがない」と反発しているのかもしれない。
要するに差別表現を批判する者たちは、表現者を非難すると同時に、その裏にいるマイノリティの存在を抑圧してしまっているのである。第三者がマイノリティのあるべき姿を規定し束縛してしまっている。
マイノリティを自分たちと同じ「当たり前の存在」として受け入れることなく、あまつさえマイノリティは自分たちマジョリティと「対等な存在ではない」という現実を彼らに突きつけている。弱者を貶めて自分たちの優位性を誇示している。
正義を主張する者たちによる行き過ぎた反発や差別意識によって、企業は黒人のモデルや巨乳のモデルを広告に採用することのリスクを回避するようになり、結果として、マイノリティの活躍の機会は失われることになる。彼らの露出を抑えさせることで、彼らの存在そのものを実質的に排除してしまっているのである。
差別表現を非難する者たちの行動は、時の流れと共に薄れゆく偏見と差別の感情を継続させ社会に顕在化させるための行為でしかない。マイノリティの存在を認めて受け入れるのではなく、「抑圧される彼ら」という存在を存続させ、彼らに寄り添う「慈悲深い私たち」という優越した状況を維持し続けようとしている。自分たちの優位なポジションを守るために弱者を牽制しているのだ。「弱者は弱者のままでいてほしい」という願望の表れでもある。
侮蔑の対象である者たちに有利になる機会を与えたくないがために、その対象に対して「被害者意識」や「自己肯定感の低下」を植え付け、彼らのあるべき姿を押し付けてしまっているのである。弱者を「抑圧される可哀想な私たち」という枠に閉じ込め、彼らの意識や行動を異なる方向に転換させ、彼らの行動の自由や上昇の機会を間接的に奪っている。
この行き過ぎた干渉は明確な牽制行為であると同時に、ある種の抑圧的行為でもあり、これは新たな差別の形であるとさえ言える。弱者に寄り添う「慈悲深い私たち」という優越的な地位を維持するために、弱者の主体性や活躍の機会を奪い、彼らを特定の領域に留めようとしている。そこには慈悲的オリエンタリズムとでも言うべき新たな支配様式が存在している。
昨今の先鋭化した「政治的正しさ」や「文化の盗用」を追及する者たちもまた慈悲的牽制を仕掛ける無自覚な差別者であり、彼らの行為は弱者の地位を固定化するものでしかない。「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」や「文化の盗用」「性的客体化」「レディーファースト」という概念は、もはや強者が弱者を牽制し抑圧するための都合の良い道具でしかないのだ。
「慈悲的差別」という概念は、もはや「強者の優しさが結果として差別となってしまう」などという生優しいものではなく、「強者が無自覚に優しさを装って弱者を抑圧している」という極めて残酷な構造なのである。上下関係を守るための遠回しな差別が無意識に行われている。
彼らは慈悲的な自分を装って遠回しに差別を行っている。そしてそれは無自覚に行われており、彼らはその悪意の存在と自らの差別心に気づいてすらいない。そこにあるのは、ただ「自分たちの優位的な地位を守りたい」という種としての原始的な欲求のみである。
以下の記事より転記・再編集
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※1慈悲的差別者の中には対象に対するステレオタイプ化された人種像があり、それは自分たちの人種よりも常に下位の存在として位置づけられている。そして彼らはその像の枠から外れた人々を許容することができない。なぜなら、それは自分たちの価値観と地位を揺るがしかねない存在だからだ。だから彼らはそのような者たちを無意識に拒絶しようとする。
そして彼らは自分たちの価値基準で「アジア人のキャラクターは一重まぶたの細く釣り上がった目」で描くべきなどと平気で主張するようになる。しかしそれは「こうあってほしい」「こうあるべきだ」という自分たちの願望と理想を押し付ける行為に他ならない。
彼らは「アジア人を過度に美化する(自分たちに寄せる)ことは差別にあたる」「黒人をストレートヘアで描くことは失礼である(ストレートに憧れる黒人をステレオタイプに描く行為であるため)」と主張するが、その主張こそが差別的なものであり、それは内なる差別心の発露でしかないのである。