日本叩きは多数派への復讐|左翼はなぜ共同体を憎み他国への帰属を望むのか

日本人の団結心や寛容さ、技術力、国民性、アイデンティティを必死に否定しようとする人たちがいる。

日本の成功を否定したり、日本の文化を称賛するテレビ番組に嫌悪感を示したりする。
絆やワンチーム、一致団結、愛国心という言葉を極端に嫌う。

外出自粛要請に応じる国民や、被災地のコンビニに列を作って並ぶモラルの高い被災者を称賛すると、何故かそれを頑なに否定しようとする。自衛隊による医療従事者への感謝飛行を非難しようとする。

社会の変化や気運の高まりを必死に抑え込もうとする。

どうやら彼らは日本人の国民性や日本の文化を褒めるという行為が気に食わないようだ。

自分を虐げてきた国や社会、日本人が素晴らしい存在であるはずがないと、彼らは必死に訴え、反発している。

彼らは自分たちの「疎外感」が刺激されることに耐えられないのではないだろうか。
多数派が同じ方向を向いて仲良くワイワイしていることが憎たらしいのではないか。

彼らは、自分たちと相反する者たちが多数派として団結し、その勢力が拡大してゆくことに危機感を抱いている。

日本の社会を憎んでいる彼らからすれば、それは自分たちが少数派へと追いやられる脅威でしかない。多数派の勢力が拡大するほどに、この反吐が出るほど所属したくない社会を受け入れなければならない現実を突きつけられてしまう。それが苦痛でならないのではないか。

自国の文化の良さや、繋がりの大切さに気づく人たちが増えれば、人々はそれをより一層大切にしようとする。それが彼らには気に食わないのである。自分たちを虐げてきた多数派が何食わぬ顔で憎き社会を維持・拡大していくのだから、なおさら面白くはないだろう。

少数派たる彼らが「団結」や「協調」「結束」といった多数派の論理を否定するのは、彼らが過去に多数派から虐げられてきたためではないだろうか。彼らは共同体から異質な存在と見なされ、排除されてきた存在なのだ。要するに彼らは、イジメや差別の被害者なのである。あるいは彼らはスクールカーストの下位に位置づけられてきたような負け組の人たちなのかもしれない。集団の輪に入れず、集団から拒絶され、孤独を味わい続けてきた人たちである。

だからこそ、彼らは自分たちのことを虐げてきた多数派を憎み、多数派の論理や多数派の牛耳る社会という存在を否定している。そしてその大衆を生み出したこの日本という国とその文化・精神をも憎んでいる。自分たちの不幸の原因や生きづらさの原因を極限まで追求した末に行き着いたのが、この昨今の反日思想なのではないか。

そして彼らの反日活動は「多数派への復讐」のための手段でもある。日本文化の消失や国益の損失は、多数派の不幸に繋がるからだ。だから身を削ってまでして反日活動に勤しむ。国が衰退して自分たちの生活が苦しくなってでも復讐を果たしたいのである。それほど彼らは社会や集団を憎んでいるということだ。集団に対する「恨み」や「憎しみ」、それが彼らの原動力となっている。

要するに多数派嫌悪である。彼らが「同調圧力」を忌み嫌うのもそのためである。過去の屈辱やトラウマを刺激するその存在を彼らはひどく憎んでいる。だからそれらしい理屈を付けて、目の前の気に食わない物事を否定しているのである。

彼らはしばしば、マナーの悪い日本人に失望したり、「世界は日本よりも進んでいるから日本も見習うべき」などと言って日本の現状を憂うが、その本心は、単に日本を叩きたいだけである。人々の過失や世界の事象を、その場限りの「都合の良い道具」として利用しているに過ぎない。日本の文化を否定するための手段として、海外の文化を引き合いに出しているに過ぎない。「他国の文化を見習って日本の文化を良くしていきたい」など微塵も思っていない。むしろ日本の風土に合わない異国の文化を強引に取り入れて社会を混乱させたいとすら思っている。彼らが民度の低い日本人を叱り飛ばすのは、それが怒りを発散させるための手段だからだ。そしてそれは自分たちの確信を再確認するための手段でもある。愚劣な日本人を前に「それ見たことか」と言って自分たちの正当性をここぞとばかりに主張しているのである。

彼らが求めているのは多数派への復讐である。多数派の邪魔をすることが彼らの目的になっている。社会の破壊はそのための手段である。実のところ、彼らは国ではなく人を憎んでいるのである。自民族嫌悪とでも言うべきものである。

居心地の良い社会を必死に守ろうとしている多数派や保守派のことが気に食わないからこそ、いたずらにその社会を壊して復讐を果たそうとしているのである。

彼らはいつだって過去に囚われている。未来のことなど何も考えていない。ただ目の前の気に食わない存在を否定して壊そうとするだけである。彼らはまるで正しい正義と未来が見えているかのように振る舞うが、実は彼らには目の前の事象と過去しか見えていないのである。


多数派の団結と民族的アイデンティティの確立をなんとしてでも阻止したい、それが彼らのもう一つの動機ではないだろうか。

彼らは自らが所属しているはずの共同体や民族の存続を否定する立場にある。日本民族を「存続すべき種」に値しない存在と見なしているのである。彼らが国益に反する言動を取るのは、自民族に対する「諦め」があるからだろう。

彼らが「北欧は日本よりも進んでいる」と言って海外の文化を闇雲に取り入れようとしたり、他国からの領土侵犯を歓迎したり、他国の国益を望もうとするのは、自民族への復讐という動機はもとより、他国という新たな「拠り所」に同化したいという願望を僅かながらに抱いているためではないだろうか。そして他国に日本を変えてもらいたいという淡い期待を抱いている。

共同体の崩壊と他民族への同化は、既存の社会に馴染めなかった孤独な彼らにとっての希望なのである。

あるいは、彼らは他民族への帰属など端から求めていないのかもしれない。

彼らが他国の利益を望むのは、それが自国の損失に直結するからだ。敵の敵は味方である。自国の衰退を加速させるために、他国の勢力を利用しているに過ぎない。「よくぞやってくれた」と言って敵の敵を称賛しているに過ぎないのである。

結局彼らは、ただ純粋に日本人の不幸を望んでいるだけなのかもしれない。そこにあるのは自民族に対する強烈な憎しみと、おぞましいほどの執着心のみである。

どの集団にも属せない彼らは、まだ見ぬアイデンティティを求めて孤独に彷徨い続けている。

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