思うに昨今のレトロブームやリバイバルブームというのは、「遠い時代への憧れ/豊かさへの憧れ」や、「流行が一周回ったことによる真新しさ」が受けている側面も強いのだろうが、実はそれと同時に、これは情報過多のネット社会によってコンテンツが飽和し細分化と高度化を極めるばかりの昨今において、人々がコンテンツに対して大衆性や堅実性を求めるようになった結果としての現象でもあるのではないだろうか。
現代の受け手はハズレの少ない堅実な過去のコンテンツを安価で手にすることのできる恵まれた時代を生きている。新しいものを探し出したり、生み出したりするよりも、過去の資産を流用するほうが少ないコストとリスクで済むから、これは時間やお金のない受け手と気力のない売り手の双方にとっても都合が良い。
それに現代というのは、優秀なクリエイターが一つの大きな流行の元に集まるような時代ではなく、彼ら作り手は分散した需要と細分化された各々の流行やジャンルの中で自らの存在を誇示するに留まってしまい、それ故に完成された集約的なメジャー文化も育まれにくくなっている。作り手は各々の小さな環境の中で満足してしまい、多様な作り手と関わり合う中で生まれる刺激も切磋琢磨も十分に得られないために、各々の文化にはその成長に限界が生じている。そして大多数の人々が理解できないような高度な文化ばかりが生み出されている。
逆に、昭和の時代というのは、ネットもなく、表現の場も限られていた時代だったからこそ、膨大な需要や資金、優秀な人材は一つの環境に集まり、そしてそこで頂点を極めた者同士のお互いの高め合いによって優れた文化が育まれていった。
現代の人々が過去のコンテンツに魅了されるのは、そのような環境の中で育まれた「完成された文化」とその成熟性・正統性を求めていることの表れなのではないだろうか。
多様性と文化の停滞
昨今ではEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)の次の流行が見つからないと言われているが、それはメイン文化のベースとなるサブカルチャーが多様化し過ぎたために文化の集約と統合のペースが緩やかになってしまったことの結果なのかもしれない。
つまり文化の土台があまりにも横に広がり過ぎてしまったために、あらゆるリソースが分散し、各々の文化の体系化と成熟のスピードは落ち、主流文化の形成にも時間が掛かってしまっているという状況なのである。そしてその新たな文化の醸成が時代の流れに追いついていないために、人々はその代わりとなる過去の完成された文化を求めるようになったのではないだろうか。
過去のものが求められるようになったということは、すなわち現代の成長が頭打ちになってしまったということの示唆でもある。