SDGsは庶民が多くの負担を強いられるだけ|胡散臭いSDGsの支配構造

SDGsは持続可能な社会の実現を掲げているが、実際は社会の持続可能性を奪うポリコレのような政治的道具にしかならないのではないかと思う。ほとんどの国はその運用の失敗によって多くを失う結果となるのではないだろうか。西洋思想の罠に引っかかるのが目に見えている。

両立できない矛盾した目標の数々から、運動家は自分たちに都合の良い目標だけを取り上げて、それを根拠に気に食わない物事や他者を叩くようになっていくだろう。まるで昨今のポリティカル・コレクトネスやフェミニズムのように。企業も都合の良い目標と努力義務ばかりを労働者に課していくだろう。都合の良いコストカットのために従業員が割に合わない負担を背負わされるようになる。

SDGsの実際の目標も綺麗事ばかりである。「貧困をなくそう」とは言うものの、しかしSDGsを推し進めれば貧困層に多くの負担と自助を強いるような社会になって行かざるをえなくなるから、この内実は「貧困層の種を淘汰しよう」でしかない。SDGsは大衆のゾンビ化を強いることになる。

いかに大衆に負担と禁欲を強いるかがSDGsの実質的なテーマとなっていくだろう。SDGsは権力層が得をするような政策にしかならないと思う。昨今の禁欲思想は人々の欲望を抑えつけ競争を止めて格差を固定化してしまうものであり、それによって得をするのは既存の持てる者たちである。SDGsは強者の論理でしかない。

1%の富裕層が世界の50%以上の富を握っている現実を考えれば、経済成長(環境破壊)による多大な恩恵とその責任を重ね持つ富裕層にこそ多くの義務と責任を背負わせるべきだろう。しかし現代の多くの人たちはそれよりも差別や正義の問題にばかり夢中になっている。この不寛容で差別的な社会は人々の金銭的な貧しさと格差によってもたらされているという側面に目を向けようとはしない。それゆえに搾取をする側の人たちが糾弾されることもない。人々は問題の根の部分に手を付けないまま生え続ける草花ばかりを刈り続けている。いつまでも弱者同士で争い合っている。

昨今の環境意識や人権意識は、格差社会の恩恵にあずかる権力層への憎悪や非難の感情を隅に押しやるためのスケープゴートになってしまっている。持てる者たちは大衆の罪悪感を煽って自分たちは善人であるかのように振る舞っている。持てる者たちは「レジ袋を有料化しよう」「難民を受け入れよう」と無責任に言うが、それは自分たちの生活と関係のない世界だから言えることなのだ。クリーンエネルギーを手にした恵まれた国に貧しい国の火力発電を批判する資格はない。ヨーロッパの国々はまるで上から目線の情報商材屋のように人々の環境意識を煽って自分たちの技術や製品を他国に売り込んでいる。

これまでの多くの運動は人々の分断を広げて持たざる者同士の争いを加速させるだけだった。SDGsもまた持てる者たちが持たざる者たちを巻き込んでろくでもない結果をもたらすのだろう。

一日二食・ヴィーガニズム・ミニマリズム 〜禁欲が求められる社会〜

一日二食のライフスタイルは健康上のメリットよりも経済上のメリットのほうが潜在的に求められてるように思う。そこには社会が貧困化した結果として、金銭的・時間的コストカットのための一日二食が支持されるようになったという側面が強く存在しているのではないだろうか。

問題は、一日二食が当たり前の世の中になってしまうと、需要と供給の関係で食料価格が上昇して、一日三食の人たちが苦労する羽目に陥るということだ。それに伴って栄養不良の子供たちも増えていく。貧困層はより貧困化する。したがって一日二食はSDGsに何ら繋がらないと思う。

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