フェミニズムと優生社会|ポリコレ化した社会では正直者が滅びる

フェミニズム的なポリコレ規範が浸透した社会では大多数の弱者は淘汰されていくのではないだろうか。

ポリコレの規範に反して本能的に振る舞う人間が異性を獲得して子孫を残していく一方で、理性的・模範的に振る舞おうとする人間ほど異性との関係を築けないまま孤独に滅んでゆく。

政治的に正しい価値観を素直に受け入れた人々は損をし、抜け駆けをした人たちが得をする社会になってゆく。

美しい相手に「美しい」と表明する行為は、異性へのアプローチとして有効に働くが、しかしそのような本能的な振る舞いがポリコレ的に抑圧される社会では、その手のアプローチはことごとく制限されてしまう(※1)。相手の美しさを褒めるという反則的な恋愛テクニックは封じられ、異性との関係性を獲得するまでのハードルは高くなっていく。これは非モテにとっては困難な縛りとなるが、イケメンや金持ち、図太いナンパ師にとっては競争相手が減る分だけ有利になる。

※1 異性の容姿を褒めることは、それを不快に思う受け手がいるために社会的に正しい行いとは言えないためだ。女性を優しく庇護する行為もまた女性を下に見た慈悲的差別として批判されている。

他にも、胸を強調した女性キャラクターの表現は、それを真似する若い女性を生む恐れがあるため政治的に正しい表現ではないという言説があるが、この言説は「若い女性は胸を強調するべきではない」という規範を間接的に押し付けるものとしても機能している。

男性が性的に魅力のない女性を求めるようになり、女性もまた控えめな草食系男子や、政治的に正しい平凡な男性、優柔不断のウジウジとした奥手男性を受け入れるようになれば問題はないが、しかし依然として多くの女性が押しの強い男性や精力的なアルファ雄を本能的に求め続け、男性もまた女性の中身ではなく外見ばかりを重視し続けるようであれば、恋愛市場における需要と供給に不均衡が生じる。

おそらくポリコレ化した社会では正しく画一的に振る舞おうとする行儀のよい者たちは自然淘汰されていくのではないだろうか。そしてポリコレの規範に反してズルをする人たちがしぶとく生き残っていく。

優柔不断で中途半端な人々はポリコレの規範のもとで身動きが取れず、手をこまねくばかりだが、自信のある持てる者たちはイケメン無罪のもとで堂々と情熱的に振る舞い続ける。

そして最終的には、ポリコレ的な規範が徹底された社会では周りを出し抜く必要もなくなるため、ズルい恋愛テクニックも不要となり、純粋に生まれ持った容姿や中身で勝負できるようになる。前に述べた通り恋愛市場のハードルも上がっているため、非モテの弱者は市場への参入すらできない。

ポリコレは恋愛市場の公正化を果たすが、一方でポリコレは優生な強者の繁栄と、劣等な弱者の淘汰を後押しするシステムとして機能していく。フェミニズム的なポリコレ規範は、勘違いした身の程知らずの劣等種(ハズレくじ)を恋愛市場から追い出すための、遠回しな牽制にもなっているのだ。強者を選別しやすい社会になっていく。「女性が男性に選ばれる社会」から「女性が男性を選ぶ社会」へと変わっていく。這い上がろうとする行動的な弱者には生きづらい社会になっていくだろう。男女の繋がりは本能的な愛欲よりも社会的な合理性によって築かれる。

ポリコレの最終的に行き着く社会は、正しい人間が正しく振る舞い、ズルをする必要のなくなる理性的な社会なのだろう。短期的にはズルをする人たちが得をするが、長期的にはズルをする人たちは見透かされて避けられるようになる。

ポリコレ化した社会では感情や本能よりも、正しさと理性が最重要視される。これは一見すると理想的な社会のようにも思えるが、しかしそこには種としての多様性は存在し得ない。

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