千羽鶴と罪滅ぼしの儀式|他人の不幸は罪の味

人は他人の不幸に同情し胸を痛めるが、同時に心のどこかで安心感や幸福感のようなものを感じているのではないだろうか。

それは「他人の不幸が自分の身に降りかからなかったことへの安堵」であったり、「自分が他人よりも安全な地位に置かれていることの実感」が得られたことによる幸福感なのかもしれない。

それが得られるからこそ、人は悲劇的な物語を楽しむし、悲劇的な事件が起こればメディアの報道にかじりつくように意識を向ける。遠く離れた場所での紛争や災害に危機感を覚えるものの、次第にそれを他人事のフィクションのように消費し始める。コタツの中でぬくぬくとテレビの画面を見つめながら貧しい人々の不幸を憐れみ涙する。

現代の日本には、被災地の人々に千羽鶴を送る文化があるそうだ。

それには不幸を負う人々への励ましや平和への願いが込められているようだが、それが不幸な人々を助ける具体的な行動よりも優先されるべき行為か否かについては疑問の余地がある。

そもそも人々はなぜ千羽鶴を折るという苦行に身を投じたがるのだろうか。

思うにそれは、それが何もできない自分たちの無力さや後ろめたさを解消するための礼儀的な行為として都合が良いからではないだろうか。

居ても立っても居られないほど心を動かされ、何かをしなければならないと焦り行き着く先にあるのが、折り鶴を折るという行為なのかもしれない。

時に人々は、心のどこかで、安全な場所で悠々と過ごすことのできる自分たちの恵まれた地位に罪悪感を覚えてしまうのではないか。他人の不幸を通して自身の幸福を実感してしまうのではないか。

その罪悪感の裏にある優越感は不幸な人々の存在を糧としており、不幸な人々を目の当たりにする度にそのバランスされた両感情は日に日に肥大化してゆき、いずれは己の精神を蝕むようになる。

だから人々は折り鶴を折るという苦行によって自らを罰することで、己の罪悪感や無力感を軽減しようと試みるのではないだろうか。出来上がった千羽鶴を相手に送るのは、その苦労による「許し」とその確証を得たいためなのかもしれない。それが得られれば自身の優位性を心置きなく享受することができる。

千羽鶴を折るという行為は自己の救済を主とする行為であるとも考えられそうだ。

それが悪いことだとは思わないが、むしろこの世界は人々の利己性のもたらす利他や善意によって成り立っているのではないかとも思うのだ。人は自分を救うために他者を救おうとする。それはこの上ないほど貴く愛おしいことではないだろうか。

※1 千羽鶴を折るという行為は宗教的な儀式や祈りのようなものであり、本来それは他人に送るよりも、お寺や神社に奉納するような類のものなのかもしれない。

※2 千羽鶴の寄贈がこれほどまでに非難される理由は、そこに現代の多数派たる貧しい人々による「優位的な地位にある者たちへの苛立ち」があるためではないだろうか。

この過酷な格差社会に生きる大多数の不幸な人たちにしてみれば、千羽鶴を折るという行為はまるで、暇を持て余す恵まれた人たちの自己満足的な道楽に見えてしまうのではないか。あるいは自分よりも劣った者たちによる思考停止の醜い行為が見るに堪えないのかもしれない。それらはいずれも現実の見えていないおめでたい幸せな人たちへの嫌悪感といえる。

恵まれた環境で生きる人々が、安全な場所で自らの罪悪感や無力感を解消するための免罪符としての折り鶴を折って何かを果たした気になっている。それがまるで現実を見ていない平和ボケした態度に感じられてしまうのである。不幸な貧しい人々の利益を考えることなく、自らの安心ばかりを優先する偽善的な態度が透けて見えてしまうのだろう。

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