90年代から2007年にかけて、日本の若者たちがロック界隈を盛り上げてきたように、現代ではボカロ界隈が大きな盛り上がりを見せている。それはまさに絶頂の様相を呈するものであり、あとは近々の衰退を待つのみと言ったところだが、しかし既に文化として根付いてしまっている感もある。※1
昨今のボカロ曲には、音程感の少ない平坦なメロディ展開に長い文章のような歌詞を乗せるスタイルも多く見られる。苦しい絶望の現代を嘆き悟ったような歌詞が多いのも印象的だ。四つ打ちの単調なリズムも相まって、さながら仏教の「お経」か何かに通じるものを感じざるを得ない。日本が目指すべきヒップホップは、この仏教や和歌のリズム、はたまた三三七拍子にこそあるのではないかと、片言のダジャレのようなラップを聴くたびに思う。※2
それはさておき、昨今のボカロ界隈というのは、「誰もがアイディア次第で富と名声の得られる世界」として若者に映っているのではないだろうか。それは「なろう小説」の世界にも同じことが言えるだろう。いずれも「何者かになる」「何かを果たす」ための市場として注目されている世界なのである。
アメリカの黒人たちが貧困と格差から脱するための手段として「ヒップホップ」を用いてきたのと同じように、現代の若者もまたボカロ文化を「持たざる者が成り上がるための手段」や、自分たちの「居場所」のようなものとして捉えているのではないだろうか。
既得権益に凝り固まった大人たちの世界に背を向けるようにして、若者たちは自分たちの主導権を取り戻すべく若者文化を創り上げてきた。そんな楽園の中で若者たちは今日も前向きに生き続けている。
ボカロは現代の若者にとってのロックでありヒップホップなのだ。
※1 大衆向けのあざとい表現を追い求めるボカロソングは、まさに近代ポップスであり、それは大衆性を失った現代のロックと対をなすものである。ロックは高度化と複雑化の末にクラシックやジャズのような近寄りがたい存在へとなってしまったように思う。
※2 電波ソングの妙に語呂の良い意味不明な歌詞の方がまだ聴いていて面白いものがある。「サイン・コサイン・タンジェント」「巡査(おまわり)ぐるぐる巫女みこナース」を歌詞に入れられるのは今どき電波ソングくらいのものだろう。