嘘松・創作実話の作り方|理論と実践【ネット表現講座|超上級編】

豊かな例文と共に、嘘松や創作実話の活用方法と理論を身につけよう。

本稿は嘘松や創作実話の悪用を助長するものではなく、むしろそのような悪用を行う者たちの意図や手口を理解するために書かれたものである。悪意に満ちた虚構に惑わされないための良識を身につけるために本稿を活用してもらいたい。

日常の女子高生たちを描く

「マックで女子高生が」といったシチュエーションはもはや定番となっている。女子高生に似つかわしくない意外な言動や状況を描くと趣が深くなる。

今日マックで女子高生がマイルス・デイヴィスについて熱く語ってた。

「フードコートで女子高生が」にすると若干リアリティが増す(気がする)。

今日フードコートに、ハードボイルドのことを「ハードワイルド」って言い間違ってる女の子がいて凄く萌えた。

女の子「でね、キヌアリーブスがなんか、凄いハードワイルドなの!」
隣の子「ふーん〜(無関心)」

隣の子が間違えを指摘せず冷めた感じだったのもまた良かったです。
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って、それトム・クルーズじゃねえか!

こっち

漫画のストーリーっぽくする

モテない女の妄想ストーリーっぽくすると、古き良き時代の嘘松感が出る。

映画館で映画を見ていたら、右の席に座っていたイケメンが私の方のドリンクホルダーの飲み物を勝手に取って飲み始めた。「え?なんで…」って言ったら「あ、ごめん俺左利きだから間違えた」って。そうか、左利きなら仕方ないよね。左手で思わず私の方のドリンク取っちゃうよね。うん、わかる。
てか全部飲んじゃってるし。そしたらそのイケメンが自分の方のドリンク取って「俺の少し残ってるから代わりにあげるよ」って、いやいやいや、そういう問題じゃないだろ。オマエ鈍感なの? ラノベの主人公なの? ていうかそれ完全に間接キスじゃん? お互いやったらもうそれは完全にセッ(文字数)

外国人や子供が物事の核心に触れる

外国人が日本の文化や風習に疑問を呈するような形式も広く親しまれている。この手の創作は嘘松認定されやすいので注意しよう。

バイト先の外国人留学生から
「日本の男性はなんで家事をしないんだい?」
「海外では男性が家事を手伝うのは当たり前なんだぜ」
って言われてハッとした。

外国人のマウンティングを有り難がる、実に日本人らしいツイートである。

また頑固な老人や、DQN、カップル、物事の真理を突く子どもを登場させるとそれっぽくなる。

さっきマックで真理を突いた発言をする不良の女子高生に老人とDQNがケチを付けているところを外国人留学生と思わしき小学生くらいの子どもが見事に仲裁して周りのスカッとさせられた主婦やカップルらしき人たちから拍手喝采を受けている現場に遭遇して思わずハッとさせられて目から鱗が落ちた。

都合の良い常識を垂れ流す

都合の良い常識を作り上げて、自身の主張に説得力を持たせることもできる。

日本と比べて海外では褒める文化が発展している。とにかく褒める。だからモチベーションも上がる。相乗効果でより良いものが生まれる。それに比べて日本はバッシングばかり。良いことをしても叩かれる。これではいつまでたっても進歩しない。海外はもっと進んでる。

海外との対比によって危機感を煽ることもできる。「海外は進んでる」「日本は遅れてる」という決め台詞を付け加えると効果的。アンチが湧いて面白いようにバズる。

本当に大切なことはきちんと自分の誠実な言葉と熱意でもって伝えたいものである。過剰な演出で得た評価や承認ほど虚しいものはないだろう。

憶測を事実であるかのように語る

根拠やソースを示さないパターン。

経営危機に陥っても、役員報酬と株主配当を引き下げれば、従業員の減給やリストラをせずともV字回復は可能という事実が証明されてしまった。
アベノミクスの時にそれをやっていれば、従業員の給料だって上げられたんじゃないのか?
労働者は今までどんだけ搾取されていたんだよ。
資本主義社会って本当クソだな。

確証のないことを、さも真実であるかのように吹聴する。そうすると、知見のある第三者が真偽を検証してくれる。わざと偏った主張をして人々の関心を集め、その事実の検証を第三者に丸投げしようとする卑怯な手法である。

偉い人たちに代弁させる

偉い人や権威のある存在を引き合いに出すことで、主張の信頼性や権威性を高めようとすることができる(高まるとは言っていない)。

昔、東京大学の教授が「増税は一時的ではあるが景気の低迷に繋がる」って言ってたのを思い出した。#増税反対 #アベ政権

タグを沢山付けると面倒くさい人ぽくなる。

自身の存在をぼかす

天然ボケ的な発想は客観的視点で描くことが有効。

インドネシアがインドの正式名称だと思われてるって話ほんと好き。

逆に、ボケを直接的に書き込んでしまうと、単なる馬鹿に思われてしまう恐れがある。だれもツッコミんでくれなかった場合のダメージもまた計り知れない。

遠回しに訴える

「興味深い」や「考えさせられた」といった文言を用いて、発言の意図をぼかしたり、遠回しに自身の主張を示したり、既存の意見に対する同意や賛同を示すこともできる。

過去のデータを見ると増税後は常にGDPの成長率がマイナスに転じていてなかなか興味深い。

このように「増税は景気の低迷に繋がるから危険である」という危惧や主張が見え隠れした回りくどい文を表現することができる。そしてその主張はあくまで読む側の解釈となるため、書き手の意図や責任を追及することは困難となる。

「なかなか興味深い」や「色々と考えさせられた」などの持って回ったような言い回しは、自分の考えをひた隠しながらも、遠回しに物事を訴えかけようとする姑息で無責任な表現であると言える。

思ったことは堂々と素直に述べたいものである。

傍観者としての立場を装う

下品なネタを扱う際には、自身が考えたネタであることを隠し、あくまで傍観者としての立場を装うことも有効。

ペンネームに「だんな」と名付けて、ラジオ番組の女性パーソナリティに「○○県にお住まいの旦那様から」って読ませる視聴者、最高に変態だと思う。

こうすることで、読み手に対して複数の解釈を提示することができる。ある人は実際にあったことのように解釈するだろうし、またある人にとっては筆者個人の発想のように見受けられることだろう。なにか事が起こった時には、そのいずれかの都合の良い方の解釈を主張すれば良い。

またこの技法は、自身の発想やアイディアを肯定する手段として用いることもできる。ある種の自作自演である。

Twitterで「おっぱい」って呟く人たちを「乳臭いオタク」って表現するの最高に的を射ているなって思った。

創作をほのめかす

見慣れない状況や登場人物を織り交ぜることによって、冗談めかしたような演出を行うこともできる。

オタクは女性を語る際の基準がなぜか決まってマンガやアニメに登場する女の子だったりするって、ばっちゃが言ってた。

またこうすることで自身の意見であることをほのかに示すことができる。

あえて嘘松であることを示唆したいような場合には、周りの人たちに拍手をさせると良い。そうすると一気に創作感が生まれる。

おばあちゃんをおんぶしながら横断歩道を渡る不良に、周りの人たちが拍手を送っている現場に遭遇した。不良めちゃくちゃ赤面しながらおんぶしてた。
なんか今日、部活の帰り道に腰の悪そうな婆さんいたからそいつ背負って信号を渡ったんだけど、終始まわりの奴らが盛大な拍手喝采を送ってきて、なんかよく分かんないし、気味悪いし、信号渡ってる間めっちゃ気まずいし、ここ日本だよな?ってなった。安っぽいドラマのワンシーンかよ。奇跡体験アンビリバボーのエキストラかよお前ら。

海外と比較する

海外の文化を引き合いに出すことで、日本の生き辛い文化を容易に批判することができる。

バイト先の外国人留学生から
「日本の男性はなんで家事をしないんだい?」
「海外では男性が家事を手伝うのは当たり前なんだぜ」
って言われてハッとした。

この手の嘘松は反論も容易である。

海外では夫が家事を手伝うのは当たり前って主張する人がいるけどさ、
海外は共働き世帯が多いから、そりゃ二人で協力するよね。

彼らは海外を絶対視し「世界はこうだから」と言って物事の妥当性を主張し、自らの理想を押し付けようとする。しかし、そもそも海外の常識や文化が必ずしも正しいとは限らない。異国の価値観が日本の文化に適合するとも限らない。勘の良い人々は書き手の幼稚さと欺瞞に満ちた作為的な行為に気づいている。もはや海外比較は人を欺くだけの胡散臭い行為でしかない。

「外国人は日本人よりも紳士」「北欧は東京よりも治安が良い」などと言って海外を美化するのはそろそろやめにしたらどうか。それを信じた人々が油断して旅行先で窃盗に遭ったり、現地で出会った外国人男性に無理やり犯されるような事になったら、誰が責任をとってくれるのだろう。あなた達の描いた幻想は他人を絶望させ不幸にするかもしれない。

私の経験上、このような出羽守論法を持ち出す人たちの中には、英語教師や留学経験のある者たちの割合が多い傾向にあるように感じられる。おそらく、彼らは日本の生きづらい社会を変えたいという目的や、自分たちの得た経験や感動を純粋に伝えたいという動機があるのかもしれないが、しかしそれは往々にして海外文化の「直輸入」という手軽で無責任な行為に行き着いてしまっている。自分たちの存在価値を誇示するための身勝手で闇雲な振る舞いでしかない。彼らは伝道師を気取っているが、悲しいことに、誰もそれを望んではいないのである。

世の中への不満をステレオタイプに描く

世の中への不満を表現する系の嘘松を創作する際には、PTAのお母さんや頑固な老人をステレオタイプに描くと良い。

今日、駅前に設置されたダビデ像が卑猥だとして抗議するPTAのお母さん方がいたんだけど、むしろあれを卑猥なものと認知できるお母さん方の感性に抗議したい。

創作実話系の面白い話やいい話にはお婆さんがよく登場する一方で、世の中の理不尽さを訴えかける嘘松的な話には、爺さんがよく登場する傾向にある。

男性の像だけが設置されているのは男女差別なので、女性の像も設置しろと主張する爺さんがいたけど、それ、男女差別じゃなくて、だたのわがままや被害妄想なのでは?

以下の例は、意外な人たちを発言者にすることで、創作実話や嘘松であることを自ら示唆する高等テクニックである。

「レースクイーンの職を奪う権利が必ずしも正義だとは思えない。女性蔑視や女性差別という主張や意識が、かえってレースクイーン達を傷つけたり差別することに繋がっていることにも気づくべき」って下校途中の小学生が熱く語っていてハッとさせられた。

差別意識や弱者意識を盾に自分たちの理想や価値観を押し付けようとする人たちがいる。自意識過剰や被害妄想、嫉妬心によって生じた主張やわがままが簡単にまかり通ってしまうのが今の世の中だ。クレーマーの少数意識が過剰に尊重されることによって逆に生きづらい社会が生まれやすくなってしまってるようにも感じる。ってセブンカフェの女子高生が言ってた。

イエローカードは黄色人種への侮蔑を連想させると主張する人がいて、その人とにかく感情論と理論武装で固められた正論で殴ってくるんだけど、そもそもそのような意図で使っている人はいないと思うし、まずはお前のその歪んだ物の見方ばかりする悪い癖と短絡的な思考、そして自身のメンタルの弱さに向き合うことを強く勧めたい。お前は見えない敵と戦っているんだ。言葉に罪はないんだよ。お前がそう言うからややこしくなるんだ。という旨を伝えたら突然周りの人たちから拍手喝采を受けた。

既存のコミュニティは政治と自己顕示の道具ではないし、点数稼ぎの場でもない。闇雲に不毛な議論を持ち出し、人々の貴重な時間を奪ってはならない。

ホワイトリストとブラックリストという言葉の使い分けは黒人差別を連想させるから廃止するべきだと主張する人がいて、その人とにかく感情論と理論武装で固められた正論で殴ってくるんだけど、そもそも言葉に罪はないし、まずはお前の言うその世間の認識や常識を変えることのほうが先なんじゃないか。本質から目をそらすなよって言ったら、周りのナチス党員から罵倒された。
男性が女性を誘うシーンは男尊女卑で男女平等に反するから、女性が男性を誘うシーンに変えるべき、って主張する正義マンがいるけど、それただのクレーマーじゃん。

正義や権利を主張・乱用しすぎると、いずれ愛想を尽かされる。面倒臭い人たちという印象やレッテルを与えられてしまう。そしてそのステレオタイプはいずれ嫌悪の対象となってしまうのである。ここぞという時に利用してこその権利と正義ではないか。って中国人留学生の諸葛孔明さんが言ってました。

何でもかんでも黒人に配慮しろと言って、黒人を腫れ物みたいに扱うこともまた、一種の差別なのではないだろうか。ってサイード人が言ってた気がする。
参考:つり目ポーズ問題と差別の助長|ポリコレ論者による偏見と差別の創造
障害者に過剰に気を使いすぎるよりも、同じ社会の一員として、他の健常者と同じように接することも大切だと思う。ってうちのネコが言ってる。

社会全体で心の余裕がなくなってきている。寛容な社会が失われつつあるように思える。ってうちのライターが意識高い系の胡散臭い社会学者みたいなことを言い出しました。

これらの多くの権利や正当化意識は時に政治利用されてしまうこともある。他人に利用されること無く、意図的に造り上げられた風潮や策略に流され踊らされることなく、賢く生きたいものである。権利を振りかざし権利に振り回される権利の奴隷になってはならない。

「正義を振りかざし正義に振り回される正義の奴隷になってはならない」って現実が見えていない理想主義者がリンカーン大統領の演説っぽいけど語呂がいいだけのそれらしいことを言っていました。

責任を他人に押し付ける

自身の主張をあえて他人の主張として取り上げることも有効。そうすることで、確信や根拠のない主張に対する責任を第三者に転嫁することができる。

目上の人に対する「了解」や「なるほど」が失礼だという風潮は、マナー教室が自分たちの存在意義を高めるために広めた行き過ぎた常識だという論評をどこかの新聞で読んだ気がする。

このように、恣意的で無責任な主張を躊躇なく書き込むことができる。ビジネスマナー業界から訴えられる恐れもない(ただし目をつけられる)。

根拠の無い持論に自信が持てない場合には、他人から聞いた話という体で自身の考えを遠回しに述べるとよい。

店員に暴言を吐く人や理不尽なクレーマーにはなぜ老人が多いのかというと「60歳後半の世代は、ちょうど競争社会を生き、学生運動が加熱していた頃の団塊世代であり、暴力的な人や、社会や他人に不満を持った人が多い傾向にあるからなのだ」という話を読んで、なるほどなと思った。社会に対する不満が不寛容な言動や態度として現れているわけか。#世代特性

そうすることで、あたかもきちんと検証された既存の論評であるかのように認知させることができる。

自分の子供をダシに使う

嘘松の中には、子供に政治的な発言や政権批判、社会批判をさせるような者もいる。

うちの子供が安倍首相とトランプ大統領のやり取りを見て「飼い犬と飼い主の関係みたいだね」って核心を突きまくってた。
娘に「なんで日本の政治家はお爺ちゃんばっかりなの?」「国会は国営の老人ホームなの?」って言われて思わずハッとさせられた。

このような悪用は身勝手な自己満足に過ぎない。不誠実極まりない鬼畜の所業である。たとえ真実であろうとも、それに変わりはない。子供に罪はないのである。子供は道具ではない。親のエゴを押し付けてはならない。子供を憎悪渦巻く政治の舞台に立たせてはならない。

嘘松耐性の高い現代のネットユーザにはもはや逆効果でしかない。インターネット上のネタとして消費されるのがオチである。

きょうTwitterで娘が心底嫌そうな顔で「お父さん、これ気持ち悪い…」と指さしたツイート。自分の属する社会を政治的に異様に誇張して描き、ひたすら自己顕示の道具として扱う気持ち悪さは想像できるし、それを子供の眼前で公然と行う身勝手さはほとんど暴力だよなと改めて思う。

https://twitter.com/chounamoul/status/1038423907697446912

書き手の浅はかさや品性の悪さが露呈するだけである。極端な主張や過度な演出は人々の憎悪や偏見を生み、争いや分断を引き起こすだけであって、決して建設的な議論の場を生み出してはくれない。ただ不毛な議論を生み出し、人々の貴重な時間を浪費させるだけである。

きょうインターネットで娘が心底嫌そうな顔で「お父さん、これ気持ち悪い…」と指さした記事。自分の属するネット社会と人々の欲望を面白おかしく皮肉に描き、なおかつ自身の批評を巧みに織り交ぜ。ひたすら承認欲求の充足と自己顕示の道具として扱う気持ち悪さは想像できるし、それをユーモアを交えた風刺という建前で公然と行う抑圧はほとんど自己満足に過ぎないよなと改めて思う。

https://marycore.jp/net/usomatsu-tutorial/

彼らは、世の中を良くしたいのではなく、単に抗議がしたいだけなのではないか。自分の考えを世の中に認めさせることだけが目的になってしまっている。相手を打ち負かすことしか考えていない。相手よりも優位に立つことしか考えられなくなっている。聞く耳を持たず、ただ闇雲に論争を楽しんでいる。高度経済成長期に闘争を求め暴れ狂っていた独善的な若者達と本質的にはなんら変わっていないではないか。そしてそれに反発するお前もまた、彼らと同類なのではあるまいか。ってうちの子供に言われました。

おまけ

「僕は無知な人間が嫌いなのではなく、無知を装う人間や、白白しい奴が嫌いなんだ」ってうちの息子が売れない小説に出てくる主人公みたいなことを言い出した。
さっきマックで女子高生が「世の中を自分の思い通りにしたがる人たちって、自分に自信がないから周りに同調を求めているんじゃないかな。劣った自分の考えを無理にでも認めさせることによって、自分は優れていたんだと思い込みたいんじゃないかな。そして次第に自分の考えが正しいものであると錯覚し始めるんじゃないかな」って世の中の真理に近づき始めてた。
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