レディーファーストは女性差別なのか|盲目的善意と慈悲的差別

最近は何かするとすぐに差別主義とか女性蔑視とか言われる時代だから、おちおちレディーファーストもできやしない。ずいぶんと息苦しい世の中になってしまったなと感じる。女性を敬い大切に扱う行為とその価値観が誤ったものであったと否定されることに戸惑いを隠せない。

最近の社会は物事の正しさや真理に囚われすぎだと思う。単なる親切心ではないか。それに女性を尊重することはある種のマナーやエチケットであり文化でもあるのだ。長い時間をかけてその本質と形を変え、慣習化し熟成しきってしまった文化そのものへの否定はそう容易なことではない。これは伝統や宗教に対しても同じことが言えるはずだ。

だから我々は社会の暗黙的なルールを律儀に守り続けてきた。男の使命を全うするべく、男性側から女性を誘い、女性を危険の少ない歩道側で歩かせ、荷物やコートを代わりに持ち、女性の分の食事代を支払ってきた。なにかがおかしいと薄々気づきながらも、世の中の常識ならば仕方ないといって不満を抑えてきた。

だがしかしよく考えてみれば、男性が女性を優遇することは、女性が男性に守られなければならない弱い存在であるという価値観の押し付けに過ぎないとも思う。男性の盲信的な善意は女性の自立と社会進出、地位向上の妨げにしかならない。レディーファーストは女性を縛り付ける鎖に過ぎないのだ。

これらの問題はアメリカ社会における黒人配慮の考え方にも当てはめられる。黒人差別に反対し黒人を尊重しようと呼びかける白人の中には、黒人は自分たち白人に守られるべき劣った存在であるといった優越思想を持った者たちもいるかもしれない。黒人に配慮しろと言って黒人を腫れ物のように扱い続けることもまた、ある種の抑圧や差別と言えるのではないか。

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問題は慈悲的な差別と盲信的な善意/盲目的な慈悲の見分けがつかないことだ。その区別を誤り、一方的な主観のみで偏った批判をすれば、建設的な議論を妨げ、不毛な争いばかりを生み出すことになる。現代のネット社会で行われている行き過ぎた論争や終わりのない不毛な争いはその結果だと思う。

また最近は文化や慣習ではなく、それを享受したり盲信したりする個人や集団を叩くような風潮があるように思えるが、それは誤った手順であり平和的な問題の解決には繋がらないと思う。

以前、黒塗りメイクが人種差別に当たるとして問題となったが、あの問題は執拗に日本人による差別意識にのみ焦点が当てられていたように思える。だが根本的な問題は、日本人によるアメリカ社会への認識不足や、文化・歴史への理解が足りなかった点にあったと思う。このようにして現代では巧みに論点がすり替えられたり、問題の本質に目が向けられないまま、ただ一方的な被害者意識のみが加速する傾向にある。

変化が早く情報過密で個人の声が届きにくくなってしまった現代のインターネット社会では、論点をずらした都合の良い問題提起や、印象的で格好のいい問題提起、簡単で分かりやすいやり方が好まれているようだが、そのような作為的で不誠実なやり方は、ただモラルの崩壊を引き起こすだけである。際限はなく、ただ終わりのない悪循環と醜い競争を生み出すだけである。

正しさや理想を求めた先に終わりはない。時代によってその定義や感じ方は変わるだろうし、答えは永遠に見つからないはずだ。だからその時々で最善な妥協案を見つけていくほかないのだと思う。多くの人たちが思い描く正義や理想は、数十年程度の短いスパンで実現できるようなものではないはずだ。それを短期間で無理やり実現しようとするから対立が生まれる。悲しいことに、世の中は人々の暗黙的な合意と妥協で成り立ってしまっている。だからそれを少しずつ正していくしかない。このような社会において、盲目的な正義とその対極にある合理的な正義の両者は悪となんら変わらない存在とみなされる。それを理解しない限り世の中を変えることはできないと思う。現代に本当に必要なのは、急速な革命ではなく緩やかな変革なのではないだろうか。

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