他人の不幸を通して自身の幸福を実感するという振る舞いは、近年ではとりわけドキュメンタリー番組の視聴者の中に多く見られるものだろう。「ザ・ノンフィクション」や「ドキュメント72時間」の視聴者は自分よりも下の人間を見て自らの安心や自尊心を保ったり、自分と同類の他者を見て自らの孤独や不安を埋めているとも考えられる。
中にはそれらによって勇気を得たり前向きな気持ちになる者もいるかもしれない。しかし思うに、その前向きな気持ちというのは、自己の肯定が得られたことによるものや、登場人物への共感によるもの、それらに伴う脳内物質の放出による影響という見方ができるかもしれないが、一方で、その向上心は自身の「後ろめたさ」や「罪悪感」によってもたらされているという側面も少なからずあるのではないだろうか。
というのも、ドキュメンタリー番組の不器用な登場人物の多くは成長を目指したり、前向きな人生を歩もうと努力しているが、それらによって視聴者は「何もしていない自分」という存在を自覚させられてしまうのではないか。
憐れみの対象であり自分よりも下の存在だと思っていたはずの他者が前向きに進もうとする一方で、「彼らよりも恵まれた立場にあるはずの自分は何もせずに立ち止まっている(持てる者の義務や責任を果たしていない)」という状況に、受け手は自身の「後ろめたさ」や「不甲斐なさ」「危機感」のようなものを覚えてしまうのではないか。そのため視聴者は自身のプライドや体面を保とうと己を鼓舞するのであろう。自覚してしまった不安や焦燥から逃れるために自らを高めようとするのである。
「自分も頑張らないといけないな」「彼らと比べれば自分はまだマシ」「彼らにできるのなら自分にもできるはずだ」という前向きな気持ちの裏には、この後ろめたさの感情(たとえば「彼らができるのに自分ができないのはまずい」「他人を憐れむ優越的な立場が失われてしまう」「自分だけが置いて行かれている」という焦り)が隠れているのではないだろうか。(※1)
感動と後ろめたさ
ちなみに人間の「感動」のメカニズムもこの「後ろめたさ」の感情によって説明ができる。
人が他人の自己犠牲に感動するのは、その自己犠牲という行為が自分には真似のできないような行為に感じられてしまうためだろう。そして自己犠牲を平然とやってのけてしまう純粋な相手を前にして、人はそれができない自分に引け目や後ろめたさを感じてしまうのではないだろうか。
相手が自分よりも下の人間であったり、その行為が簡単に真似できるようなことであれば、この後ろめたさは直ちに自らの向上心へと繋げることができるが、そうでないなら人は相手への尊敬と称賛によってその後ろめたさを解消する他なくなる。可能性に満ちた若い者たちもまた相手への憧れや理想化・リスペクトによってその後ろめたさや無力感から逃避し、時に自らを高めようとする。またある時は、相手を自分よりも上の存在と見なすことによって、同程度の相手に抱くはずであった嫉妬心や劣等感、敗北感から逃れようとする。自らを相手よりも下の存在と位置づけ、その弱さを愛おしみ涙する。弱さを見せることで周りから責められることの恐怖や心配をなくそうとしている。
相手への尊敬と称賛は、自身の役割を果たそうとしなかった不甲斐ない無力な自分から目を逸らすのに都合の良いものでもある。
人々がなぜ他者の行動に感動し称賛するのかと言えば、それはそれが共同体の意識と価値観を高める行為だからであり、ひいてはそれが共同体の進歩と発展に繋がるからであろう。このような人々は自身の果たせない役割や義務・責任というものを自分以外の他者や社会という存在に担わせようとするが、感動と称賛はその責任や罪悪感からの逃避と償いの手段ともなり得る。とりわけこの称賛には、社会的に意義のある他者の行為や振る舞いを継続させる効果がある。「自身の果たせない役割を代わりに担ってくれる他者がこの世界には確かに存在する」ということの安心とその救いがあるからこそ人は感動する。(※2)
フィクションの理想とファンタジーの罪
スーパーヒーローの自己犠牲がなぜ陳腐に感じられるのかといえば、それは彼らが儚いまでの純粋さ(すなわち弱さ)を持ちながらも、その実、彼らが強者の地位に属してしまっているためだろう。その矛盾故に受け手はヒーローを自分と対等の存在ないしそれ以下の存在として見ることができない。彼らはあくまで理想の存在でしかないのだ。だから受け手の心を抉るような演出にはならない。受け手に現実を突きつけることもない。受け手の持つ現実を揺れ動かすような芸術にはならない。ただ受け手をその作品の世界に引き止めてしまうだけである。
努力は持たざる者が行い続けるからこそ貴く愛おしいのであるし、自己犠牲はクズ人間が行うからこそ胸打たれるのである。
本当に優れた創作というのは、人を感動させ涙させるようなものではなく、人の不安や焦燥を煽り、居ても立っても居られなくなるくらいに人の心を突き動かし、その人間のその後の生き方さえも変えてしまうような、そんな創作なのではないだろうか。
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