成人向けコンテンツの「ヒロイン羨望」と「女性への感情移入」について

成人向けのコンテンツには「寝取られ(NTR)」と呼ばれるようなジャンルが存在するが、これらは大切な女性を他の男性に奪われることの敗北感を楽しむものというよりは、女性に裏切られることの無力感を噛みしめるものなのではないだろうか。

コンテンツの受け手は寝取る側の男性に嫉妬しているわけではなく、自分たちの思い通りにならない自由奔放な女性に羨望しているのである。

さらに言うと、成人向けコンテンツの受け手はしばしばヒロインの側に感情移入しており、それは自身の無力感や内なる暴力性・競争心(闘争心)からの逃避によるものであると同時に、男性を翻弄する主体的な女性たちの優位性や背徳感を享受し我が物にしようとする試みでもある。成人向けのコンテンツに描かれる女性像というのは男性にとっての「なりたい自分(なりたかった自分)」という押し隠された願望なのではないだろうか。

男性は多くの成人向けコンテンツに見られるような「快楽に溺れる意思の弱い女性」や「自由奔放で淫らな女性」その他の「本能に忠実で無責任な女性」や「高い性的価値を有する女性」「青春の時をかける儚き少女たち」に潜在的に憧れると同時に憎んでもおり、男性はそのどうにもならない劣等感や嫌悪感、嫉妬、憎悪、恨み、悔しさ、焦り、不満を性的興奮や性衝動の形で発散し解消しようとしているのではないだろうか。だからこそ男性の行為というのは時に暴力的なものとさえ感じられるのだ。(※1

そのため男性の持つ「女性として暴力的に扱われたい」という願望と「女性が暴力的に扱われていてほしい」という願望は裏表の関係にあると考えられる。中でも「汚いおっさんに辱められたい」という玄人たちの屈折した羨望は、「純白な女性を汚したい」という欲求の裏返しであると言える。男性は女性の持つ万能性を奪うことによって自らの復讐心と支配欲を満たそうとしているのだろう。(※2

男性は女性の「求められる側(受け入れる側/選ばれる側)」という絶対的優位な立場に羨望と憎悪の念を抱いているからこそ、それをどうにかして覆そうとする。そしてそれは男性の競争心や労働意欲を支える根底の動機ともなっているのだろう。

ところで「托卵女子」という業の深い言葉がある。これは女性が浮気相手との間にできた子を、現在の夫に実の子として偽って認知させ、夫にその血の繋がっていない子を我が子として育てさせようとする女性を表すものだ。女性たちは往々にしてその事実を秘匿し自己正当化に徹する向きがある。

そしてこの当事者である女性に対して感じる言いようのない不信感や嫌悪感、失望、憤りというのは、「寝取られ」物のコンテンツで感じるそれと非常によく似ているのではないか。

そもそも両者の根底にあるものに明確な違いはないようにも思う。後者は負の感情を自己防衛や復讐の一環として、性的興奮を喚起させる消費可能なコンテンツ(女性を受け手として描いたものや、女性を男性にとって都合の良い存在として描いたもの、女性を翻弄され破滅へと向かう者として描いたもの)へと昇華ないし融解させているに過ぎない。そしてコンテンツの受け手は貶められる女性に感情移入することによって女性への加虐を間接的に実感しようとするのではないだろうか。そのため物語の女性の側になりたいという受け手の願望は建前であり、それはあくまで内なる暴力性からの逃避によるものとも考えられるのだ。

ちなみに成人向けのコンテンツに夢中になっている世の男性たちは憎悪中毒のような状態にあり、それは嫌いなものにわざわざ近づいて勝手に怒り出してその不快なものを叩いて気持ちよくなっているミソジニストやミサンドリスト、先鋭化した運動家や活動家たちと根本的には何も変わらないのではないか。いずれも抽象的な負の感情や日頃の鬱憤を目の前の分かりやすい具体的な敵にぶつけて満足しているだけである。

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※1 寝取られによってもたらされる性的な興奮は、「自分たちの思い通りにならない女性に罰を与えたい」という欲求によって突き動かされたものであるとも考えられそうだ。

ではなぜ受け手は女性を憎悪するのだろうか。おそらくそれは寝取られる側の自分たちの劣等感や無力感、不甲斐なさの責任を女性の側に転嫁するためではないだろうか。逆に寝取った男性の側を憎めないのは、それが自身の敗北を認める行為になってしまうためだろう。受け手は男性間の争いに負けたという事実を受け入れることができないのである。だから「男性に負けたのではなく女性に裏切られた」と思い込もうとするのだろう。
※2 ちなみに寝取られ物による興奮は、自分のメスを他のオスに奪われたことの危機感によってもたらされた動物的本能によるものであるという見方もある。寝取られ物のコンテンツというのは、それによる対抗心や闘争本能をいたずらに煽るようなものであり、したがってこの界隈の言う「脳が破壊される」というのは、嫉妬や羨望に狂わされること以前に、かの本能が中毒的な快楽への欲求と結びつけられてしまった状態そのものを表しているとも言えそうだ。我々は雄に備わった素質と才能を極めて無意味なことに費やしているのだ。しかしそれは芸術や文学のように我々の関心を惹きつけてやまないのである。
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