寝取られ(NTR)と呼ばれる表現様式はなぜこれほどまでに流行し定着したのだろうか。
考えるにこれは、格差社会と女性活躍社会の広がりに伴って男性たちの自信と誇りが失われてきたことが一つの構造的な要因となっているのではないだろうか。
女性の解放運動と社会進出によって男女の平等化が推し進められてきたが、それは同時に男性の不公平感を生み出し、また社会構造の変容も相まって男性たちは男としての生き辛さと報われなさを強く実感するようになった。男性たちは女性活躍社会に順応しきれていない既存の「男らしさ」の規範に縛られ、多くの理不尽と責任を背負わされている。また表現規制やフェミニストの訴えによって、「男性の性欲は汚らわしい存在である」という観念を世の男たちは強く意識させられるようにもなった。
男性は現代において多くの我慢を強いられる状況にあるが、対照的に女性たちは我慢をやめ奔放に徹している。そして男性はその遠慮のない利己的でワガママな女性たちにズルさや疎ましさを覚えると同時に羨ましさを覚えるようになったのではないか。
そして男性は今日における社会的な敗北感や無力感を寝取られ物の世界においてマゾヒズム的に消費しようとしているのではないだろうか。あるいは反対に己の屈辱的な仕打ちに対する復讐心や鬱憤を晴らすための都合の良い対象として、理性や品位を失わされ翻弄される堕落した女性を寝取られ物の世界に見出したのではないか。そして受け手はその女性を通して「女性のあるべき姿/本当の姿」とその罪深さを再確認するのである。同時に彼ら受け手は妬ましき女性に与えられた罰を他者の視点、とりわけ女性の視点を通して確認することで間接的に満足を得ようとしているのだ。そうすれば受け手は自らの暴力性を自覚することもない。
寝取られ物のコンテンツというものは、一見すると女性の主体的な意思によって行為に及ばれているように見えるため、受け手は一切の罪悪感を覚えることのない実に都合の良い娯楽なのである。もっとも実際のところは作り手の側と物語の男性の側がそのように両者を誘導しているに過ぎない。自由奔放で信用ならない女性たちを物語の中で掌握し翻弄することで、受け入れがたい現実の女性観との折り合いを付けようとしているのだろう。あまつさえ作品の凌辱性は物語の構造上のレトリックによってしばしば隠匿される。たとえその凌辱性に気づいたとしても、受け手は寝取る側の男性の暴力性を享受することはなく、代わりに寝取られる側の男性や女性に自己を投影することでもって、その暴力性から逃避しようとする。そのため受け手の支配欲はあくまで間接的な形をもって満たされるのだ(※1)。
つまるところ、世の男性たちは毀損された男性性の回復ではなく、傷つけられた自尊心への慰めに徹しているというのが現状なのであろう。寝取られというジャンルは、そのような現代のマジョリティたる草食男子や自信のない消極的な弱者男性に寄り添った受動的なコンテンツであったからこそ、これほどまでの流行を果たすことができたのだろう。また寝取られ物に描かれる信用ならない女性像というのは、結婚を志向しない者たちにとっては、その自身の主義を正当化してくれる都合の良い存在にもなっている。さらに言えばNTRで描かれる「女性は強い男性を求めている」という現実は「弱い自分は頑張らなくても良い」という読み手の諦めを肯定してくれる根拠ともなり得る。
現代社会における男性たちは薄っすらと女性嫌悪(ミソジニー)や女性羨望(あるいは女性へのコンプレックス)を抱えているが、多くの男性はその事実を受け入れることができないため、凌辱物のエッセンスが巧妙に散りばめられ包み隠された寝取られ物で自らの劣情を緩やかに満たそうとしているのではないだろうか。