最近のダンス音楽を受け入れられない|ステロタイプ化と消耗社会

最近のダンスミュージックシーンについていけない。昔と比べて今のダンス音楽はかなり変わってしまったなと感じる。どれも似たようなステレオタイプの曲ばかりだ。私がダンス音楽をあまり聴かない人間だからそう感じるのかもしれないが。

まあそんな素人の感性や意見としてなにか参考になるものでもあればと思って、たまにはこんなブログらしい記事を書いてみようと重たいキーを叩いた次第なのである。

メロディよりもノリが重視される現代

昔のダンス音楽(トランス、ハウス、ユーロビート、ディスコ)はもっとメロディアスなものが多かったように思うのだけど、最近のダンス音楽やEDMはノリばかりが重視されていて、とても時代の変化を感じる。

曲調もだいぶ変化していて、一昔前のダンス音楽は哀愁や浮遊感、壮大さを感じさせるものが多かったような気がするのだけれど、最近のダンス音楽は開放感や一体感、高揚感を強く感じさせる作風が多くなったように思う。男女の愛とか仲間の絆とか、そういう陽にあたった生暖かい音楽ばかりになった。夏のビーチや青い空を感じさせるオーシャンなんちゃら的なノリや、イベントやパーティが始まるときの期待感を感じさせる曲も多い。派手な格好よさを感じさせる曲ばかりで、冷静な格好よさが失われてしまっているように感じる。聴くための音楽ではなく、完全に踊るための音楽になってしまったのだ。

多様化しているはずなのに見分けがつかない

ハウス音楽なんかもかなりジャンルが細分化されてきていて、本当にハウスなのかどうかも疑わしいようなアレンジで溢れ返っている。あの手のハウスはエレクトロ・ハウスやプログレッシブ・ハウスと呼ばれているそうだ。

最近はハウスもテクノもダブステップもトラップも見分けが付かなくなってしまった。私の感性が鈍いだけなのかもしれないが、しかし多様化しているというよりはガラパゴス化しているだけのようにも思える。同じ土俵や認識の中でいかに個性や新しさを追求するかという、テクニカルな傾向が強まっている。皆で同じような認識を共有し、その中で新しいことや面白いことを生み出していこうという流れに移っている。結果としてミックスジュースみたいな音楽で溢れかえってしまう。これはフラット化が進む昨今のネット社会やCGM界隈の現状と実に酷似している。要するに、ダンス音楽は大衆化してしまったのだ。

近年では、その手のジャンルはEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)という狭義的な括りで総称されているようだ。

そもそもEDMを知らない読者にEDMがどんな代物かを説明するとしたら、どうだろう「エクストリームスポーツ系の動画とかでよく流れている歌のないBGMみたいなやつ」と答えれば、読者の半分くらいの人たちには伝わるのではないかという気がする。

こんな例えもどうだろう。

  • 若者がバーベキューをするときに流しているやつ
  • パーティや浜辺とかで流れていそうな派手で落ち着きがないやつ
  • 下品でダサい音が鳴る音楽
  • ワン・トゥ・スィ・フォウ!wwテーテッテッwテッテッテwww
  • ヴェーッwwヴェッwヴェッwヴェッwヴェッwwベンベンwww
  • ライブの観客がジャンプしながら踊ってる
  • ライブで踊っている女性客の格好がヒッピーっぽい
  • 夏のビーチを連想させるようなダンス音楽
  • トロピカル感の高いフヌケけたポンポンした音や屁のような湿ったプープー音
  • パリピ感やアゲアゲ感、クラブ感が高いやつ
  • スポーン、ゼーゼー、ベーベーって感じの電子音が多いやつ

そして私はどうもこの流れについていけていないような気がしてならない。完全に若い人たちのための音楽という感じがして、自分とはどこか縁のないジャンルという気がして、心底焦っている。

今やアメリカのヒットアーティストの多くがEDMを取り入れているというのに(あのジャスティンバービーとかいう人もやってるらしい)、私は時代の最先端を受け入れられていないのである。

大昔に「ロックは野蛮」だとか「不良の音楽」だとか「こんな曲を聞いていたら馬鹿になる」などと言っていた時代錯誤の大人たちと同等の存在に成り下がったのである。「EDMは派手で下品でダサい」「同じ規格で作られた工業製品のよう」などと戯いた近視の老害として未来永劫最先端の若者たちから嘲笑されることになるわけだ。

それでもなんとかいろいろなEDMを聴いてみたのだが、だめだみんな同じような曲に聞こえてしまう。作曲者は違うというのに、どれもこれもワンパターンで同じような音使いばかりだ。展開は早いがメロディーがすこぶる退屈で何のひねりもない。それっぽい音とノリだけで作られたような曲ばかりである。瞳を閉じると頭の悪そうなパーティーピープルがアルコール片手に踊り狂う光景が浮かんでくる。EDMを取り入れて全米チャートに挙がったヒット曲ですらそんな印象を受ける。

ポップでおとなしめの部類に入ると思われるCalvin HarrisのSummerを初めて聴いた時は素直にダサいと思った。清々しいほどにダサい。いずれダサかっこよさみたいなものが理解できるようになるんだろうと思って辛抱強く聴き続けてみたが、やはりダサい。いつ聴いても色あせないダサさである。一周回ってもダサい。EDMに対する偏見を360度変えてくれた曲といっても過言ではない。ベテランのママが作るやたらと濃い酎ハイみたいな音楽である。あまりにも気に入ってしまったので、もう100回くらいは聴いている気がする。とても気持ちのいい曲だ。おしゃれだし、PVに登場するナイスヒップな姉ちゃん達もシャレオツだし、優れた曲だということも分かるのだが、なぜそれが優れているのかは未だに理解できない。ブルース・リーのドヤ顔が目に浮かぶ。まるで高級焼酎で割った酎ハイのような背徳的な音楽だ。

一昔前まではこのダンス音楽というものをまがりなりにも理解してきていたつもりなのだ。メジャーどころばかり追ってきたが、Madeonは秀才だし、BTとChicaneは天才で、Ferry Corstenは天使だ。Zeddは若干大衆寄りだがその功績は大きいし、Tiestoはイーロン・マスクに似ているし、Ferry Corstenはいいやつだ。イントロが異様に長いことで不評なトランスに疑問は感じなかった。トランスはダンス音楽界のオーケストラだと思う。ハウスは室内楽といたところだろうか。ユーロビートを初めて聴いたときは物凄い衝撃だった。あんな下品な伴奏にこんな綺麗な旋律を乗っけていいものかと思った。

思い返してみると、どうやら私はメロディアスな曲しか受け入れられないタイプの人間のようだ。ボーカルの入った曲に興味はなかったが、主旋律のはっきりとした曲を好んで聴いてきたように思う。だから現代のEDMにありがちな、メロディよりもノリを重視する傾向にどうにも乗り切れていないようなのだ。ノリだけに。

音楽は感じる時代・聴き流す時代

メロディよりもノリを重視する傾向は、ダンスミュージックシーンに限らず一般的な音楽シーンにも見られる。なぜだろうと考えてみたが、やはり時代の変化なんだと思う。

多忙な現代では一つのことに没頭できる時間が少なくなってきているように思える。だから音楽については、複雑な歌詞やメロディよりもリズムやグルーブを重視した気軽な曲が求められているのだと思う。凝ったコード進行よりも分かりやすくキャッチーなコード進行のほうが受け入れられやすい時代なのである。音楽は細部ではなく雰囲気を楽しむ時代になったのだ。音楽を真面目に鑑賞する人たちはもう少数派で、今は作業用のBGMとして曲を聴き流す人たちのほうが大半なのではないか。音楽は使い捨ての便利な道具やサービスとして消費する時代なのだと思う。だから音楽を所有するという感覚も希薄になっていくのである。また質よりも量の時代だと思う。

昔はランニング時と読書時で音楽のジャンルや曲を分けて聴いていたが、最近では運動時間や読書時間が減るにつれて音楽の選定も面倒になってしまった。今ではストリーミング配信サービスで垂れ流される曲をランダムに聴き流している。一つのことに没頭できる時間や機会が減ることで一つの音楽を聴き続ける機会や動機が失われてしまったのだ。

思えば、昔と比べて今の時代はやりたいことや、やらなければならないことが多くなった。面倒なメールやSNSのやり取りはもはや日常生活の一部と化している。コミュニケーションやソーシャルゲームをルーチンワークとしてこなす時代である。コミュニケーションや意思の疎通は短くノリの良い定型文で済ませる。話題の中心は新聞やテレビではなくネットに移っている。変化が早く膨大な量の情報を意識的に処理し摂取し続けなければ生き残れない時代である。我々は秒刻みでこの時代を生きている。自由主義とグローバル化は際限のない競争を生み出し、今や企業の競争力は長時間労働によって支えられている。血で血を洗う様相を呈している。富の格差は広がるばかりで資本主義社会は沈みゆく一方である。現代の若者は先が見えない時代の中で更なる加速を強いられている。我々は一体どこに向かおうとしているのだろう。

こんな時代だからこそ、深く凝った音楽に没頭して居場所や安らぎを求めたいものだが、多忙な生活がそれを認めないのだ。何も考えずに音楽を消費したほうがずっと楽だと気づいてしまった。新しい音楽を探すことすら億劫になった。聴き慣れたアルバムを何度もループして聞いていることに気づいた。誰の何の曲で踊っているのかすらもう分からない。クラブで踊り明かしてストレスを発散したり、不安や気を紛らわすことだけが目的になってしまった。だからステレオタイプのそれっぽい音楽だけでも十分に満足できてしまう。直球的で分かりやすく刺激の強い曲ならなおさら都合がいい。絶え間なく変化する音楽を無理に理解しようとするよりも、何も考えずに受け入れたほうが明らかに楽で楽しい。音楽は感じるものなのだ。

そんな時代に音楽を真面目に聴く人間はもうお呼びでないのである。そんなにんげんはのんきであほうなのである。腰を据えて音楽を聴く時代はもう終わったのではないか。音楽は作品や日常を彩る背景にとろけて眠りゆくのだ。

音楽シーンも現代人も少しがんばり過ぎているように思う。もうそろそろ燃え尽きてしまう頃合いだと思うのだが、どうだろう。

広告