LGBTがタブー視されているかのような社会|ステレオタイプ化するLGBT

LGBTは世間から蔑まれている弱い存在であるかのような風潮がある。しかし日本はもともとLGBTに対して寛容な社会だったように思う。少なくとも私はLGBTという言葉が浸透する遥か以前から、このような人々の存在を当たり前のように感じていた。

勝間和代氏がカミングアウトをした際にも、SNS上で「同性愛が当たり前のように受け入れられる社会になるといいですね」といった趣旨のコメントを多く見かけたが、いや、もともと当たり前のように受け入れられてきていたではないかと首を傾げてしまった。少なくともそういった空気を後押しするべきだと思った。

別に驚くようなことではなかったし、普通のことを普通にやっただけなのだ。ここは普通に「いいね」や「お幸せに」とだけコメントするのが筋だろう。日本は全体的には寛容で平和な社会なのだから、もっと堂々とすればよかったのだ。

LGBTをタブー視する風潮こそが偏見を生んでしまう

称賛や期待の声を送る著名人も多くいた。当たり前のことを当たり前のようにやっただけなのに、なぜこれほど騒ぎ立てるのか。これがLGBTに対する世の中の理解や浸透の現状なのだろう。我々は未だに、LGBTをまるでタブー視されたデリケートな存在であるかのように扱ってしまっているのである。これこそが偏見と差別ではないか。

たしかにLGBTを嫌悪し差別する人や、LGBTに偏見を持つ人は一定数いるのだろう。しかしそういった人たちは少数派なのではないか。逆に海外ではこれが多数派になるのかもしれない。海外ではLGBTは神への冒涜とされているそうだ。しかしここは日本である。だからあの手の活動家や利権団体の海外でのやり方は日本では通用しないと思う。

もし仮に、LGBTの存在を当たり前のように認知している人達が多数派なのであれば、それ相応のやり方が求められていくだろう。「LGBTを軽視する社会は間違っている」と主張するよりも「世の中は既にLGBTを当たり前のように受け入れている」という風潮をより強固なものにすることの方が得策だろう。「LGBTに配慮しろ」と押し付けるよりも「LGBTに偏見を持つ人たちは少数派なのだ」という現実を突きつけることのほうが有効だろう。

むしろ、もう既にその段階に来ているのだと思っていた。

多様化や一般化ではなくステレオタイプ化していくLGBT

もともと日本にはLGBTに対して寛大な文化があったように思う。女装をした芸能人やオネエ系の芸能人は昔から当たり前のように活躍していたし、戦国時代よりも遥か以前から男色の文化はあった。文学やコンテンツ産業の世界では女性同士の愛や男性同士の愛が頻繁に描かれてきた。他国のような宗教的な迫害や暴力も見られない。近年では性転換手術に保険が適用されるまでになった。

なぜいまさらLGBTが非文明的とみなされたり、世間から蔑視され、偏見や嫌悪の対象となっているかのような風潮を普遍化しようとするのか。LGBTの人たちの不安を必要以上に煽っているようにも思えた。

長年の地道な周知と努力の積み重ねが無に帰してしまうのではないかとも思えてならない。

LGBTの人達の感情が政治利用されてしまうような時代もやってくるかもしれない。彼らの意思はいずれ当事者の手を離れ、利権として消費されるようになる。論点はすり替えられ、不毛な対立ばかりが生み出され、憎しみや憎悪に満ちた闘争の時代へと進んでいく。本来LGBTの人たちに偏見や嫌悪を示すことのなかった人達までもが、彼らを敵とみなし攻撃するようになる。そのような時代への誘導は、この問題と真剣に向き合う者たちへの最大級の侮辱にほかならない。

ステレオタイプ化と分断

LGBTがステレオタイプ化するほどに、LGBTであることをカミングアウトしづらい社会が生まれてしまうのではないか。中にはLGBTの定義に属することを嫌う人たちがいたり、デモやパレードでLGBTの人権を高らかに謳い上げる人たちとは同一視されたくないと思っている人もいるかもしれない。

自分はオタクではないと思っているオタクがいるのと同じように、自分は独り歩きしてしまったLGBTムーブメントとは距離を置きたい、と思っている人達もいるのではないか。他人からの余計な配慮や同情を苦痛と感じてしまうような人達もいるだろう。「どうせ見せかけの承認や善意だろう」と疑心暗鬼になる人もいるかもしれない。「あれが噂のLGBTってやつか」といった好奇の目で見られることに恐怖を抱いているような人達もいるのではないか。中には「余計なことをしてくれた」「そっとしておいて欲しい」と感じている人達もいるかもしれない。

そこには世間体や羞恥心、自己否定といった目に見えない圧力や疎外感、閉塞感があるように思える。それは人々の無理解や無自覚によって生まれるある種の差別や迫害であり、そういった根底の部分を解消しない限り、LGBTの人たちが本当の意味で受け入れられる社会の実現は成し得ないはずである。

このような人たちが少数派の中の少数派なのか、少数派の中の多数派なのかは分からないが、いずれにしても彼らは本当の意味で報われるのだろうか。LGBTという言葉は新たなレッテルを生み出してしまったようにも思える。LGBTの運動が過熱し、LGBTがステレオタイプ化するほどに、彼らの居場所はなくなってしまうのではないか。これこそが多様性の排除ではないか。大きな変革のためには多少の犠牲や忍耐も必要といったところだろうか。

かつて「ぎっちょ」や「親のしつけがなってない」と蔑視されていた「左利き」が、地道な周知と時の流れによって偏見と蔑視から脱した現状とは相反する方向に向かおうとしているように思えてならない。物事を変えるには、早急で大きな革命ではなく、緩やかな変革が必要なのではないだろうか。もちろんそこでも犠牲や忍耐は求められるのだろう。結局はバランスが重要なのだとも思う。

しかし少なくとも、マイノリティとは、一方的に受け入れさせるようなものではなく、人々の心からの理解と自発的な意志によって受け入れられるべきものだと思う。そして先人たちはそのための努力を続けてきたのではないだろうか。

日本のLGBTを取り巻く環境はいま大きな過渡期を迎えようとしている。今後はより慎重なやり方が求められていくはずである。今まで積み上げてきたものを壊して振り出しに戻るようなことはあってはならない。LGBTという言葉が生まれる以前からこの問題と向き合ってきた人達の地道な努力がバブルの泡と消えることのないようにしていかなければならない。LGBTが特別な存在として受け入れられる社会ではなく、LGBTがごく自然で当たり前の存在として認知される社会の実現が求められているように思う。

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