オタクの大衆化と大衆のオタク化 〜オタク時代の終わりと死〜

オタクは死んだのだ。既存のオタク達は多数派の中の少数派へと落ち着き、今では両者の見分けもつかないほどに曖昧な存在と化してしまった。オタクはオタクという曖昧な市民権を得ると同時にその影響力を失い、さらなる少数派へと追いやられてしまったのだ。

オタクの怠慢と大衆の怠惰

最近「売れるラノベは主人公が努力せずご都合主義」という趣旨の話が話題に上がっていたのだけど、これは一体どういうことなのだろう。

元ネタはこれだ。 人間関係を壊す人工知能…ドワンゴ

俺TUEE系やスティーブンセガールの「沈黙シリーズ」的なものが売れる、というのとはまた違う話のようだ。

読者が過程よりも結論を求めるようになったという見方も出来るし、単純に読者が高齢化/成熟化して従来のような努力物・成長物が飽きられたという見方もできる。

こんなツイートも見かけた。

角川の社長がラノベが売れる方式として
・主人公は努力しない
・女性は向こうから勝手に好きになる
・能力は勝手に身につく
という描き方が必要で、その方が若者は感情移入をしやすいと考察しているのは興味深いですね。

出典:Twitter

これは過大解釈すると、

・努力したくない
・フラれるの怖い
・楽に生きたい

の裏返しだという見方もできる。

すると、ラノベの購買層というのは、努力が苦手で恋愛は受け身で積極的になれず出来れば楽に生きていきたいという、およそリア充や意識高い系とは対照的な層によって成り立っているのかという解釈にも繋がってくる。極論を言えば、ラノベ業界はいまだに根暗やオタクと呼ばれている人たちに依存しているのだ。

もちろんオタクの中にもマニア的で意欲的な努力家は多くいる。

だが実際はどうなのだろう。

ここ数年の間で話題となったラノベ作品やアニメ作品を見返してみると、それらはどうも違うという気がしてくる。

リア充化する主人公

最近のコンテンツでも、ハーレム展開や特異者設定というご都合主義的な部分は多く、その点は今も昔もあまり変わっていないのだけど、しかし主人公の性格やキャラクター設定は明らかにリア充化しているように思える。「現代の等身大の若者像(笑)」でも反映されているのだろうか。

昔の主人公はどちらかと言うと、少しませた感じの一匹狼的なキャラが多く、基本無気力で人と関わることを億劫と感じているようなタイプが多かった。

しかし最近の主人公は真逆である。主人公の周りには男性キャラの友人も多く登場するようになったし、主人公自身も愛嬌があって社交的な面もあり、面白いことが言えてノリも良い。部活帰りにその辺のフードコートで知人と一緒にポテトをモソモソ食べながら笑い話や恋愛話に夢中になっているような、そんな垢抜けないごく普通の男子高校生的なキャラが増えてきた。

少年コミックや青年コミックに出てくるような主人公にも近い。物語の世界観もどこかマンガ的になってきたように思える。

やはり最近のラノベ主人公のキャラ設定にはどこか大衆的な現代の若者像みたいなものが反映されているような気もしてくる。

だとすれば、先程の「ラノベは根暗やオタク層のもの」的という解釈は間違っていて、むしろラノベは大衆的な物へと移り変わろうとしているようにも思えてくる。

主人公が努力しないというのも間違えで、実際は青春スポーツ漫画よろしく困難へ立ち向かって努力や試行錯誤を続け、その過程で多くを学び成長していくようなものが多い。

大衆のオタク化

大衆化という現象については、ラノベ業界にかぎらず、アニメ業界や我々の日常に対しても当てはまっていて、実際今と昔とではオタクコンテンツに対する世間の見方も大きく変わってきている。オタク文化のカジュアル化がこれまでにない速さで進んでいるように感じられる。

今は中高生が当たり前のようにアニメ・マンガや好きなキャラクタの話をする。その中には面白いことに萌え系のコンテンツも多く含まれている。昔は萌え系にかぎらずその手のジャンルの話をする奴らは真っ先にオタク認定・ロリコン認定されていたものだけど、最近はどうもオタク文化に対して偉く寛大な風潮がある。

また今はヤンキーですら萌えアニメを支持する時代に入っている。ラブライバーなんかはもはや社会現象と言ってもいい。彼らは萌えを一つの文化やファッション、またはそれ以上の存在として捉えているのかもしれない。

しかし今の若い世代はオタクコンテンツに対して少しオープンすぎるようにも感じる。この姿勢はいずれ自分たちの首を絞めることに繋がるのではないか。

オタクの大衆化

昔はオタク趣味というものは周りに感づかれないように隠れてこっそり楽しむものだったように思うのだけど、それが10年ほど前から徐々に変わり始めていき、「隠れオタク」という言葉が流行りだし、オタクのカミングアウトが行われるようになり、「オタク趣味を理解できることが逆に格好いい」という風潮すら生まれ初めたように思う。それがつい5年ほど前のことであった。

そしてその後の五年間ではなにが起きたのか。「オタクの大衆化」はもとより、先程挙げた「大衆のオタク化」が急速に進んできたように思える。

オタクをカミングアウトしやすい社会から、オタクが生まれやすい社会へと変わってきたように思う。

オタクの時代は終わったのか

世間で話題になっている「オタクの時代は終わった」論であるが、実際の所はどうなのだろう。

私は確かに終わったと感じている。正確にはオタクが死んだと言ったほうがよいかもしれない。既存のオタクは多数派の中の少数派に落ち着き、今では両者の見分けもつかないほどに曖昧な存在となってしまった。オタクは市民権を得ると同時にその影響力を失いさらなる少数派へと追いやられてしまったようにも思える。オタク文化の大衆化がもたらしたものとはオタク時代の終焉すなわちオタクの死なのである。

まとめ

  • オタクが大衆化した
  • 大衆もオタク化した
  • オタクが生まれやすい社会になった
  • 従来のオタク像とは異なるオタクが生まれ始めた
  • 従来のオタクは今でも少数派にすぎない
  • 行き場を失ったオタクに残された道は同調と死か?
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