フェミニストは男性優位の社会を是正し、男女平等を実現しようとしているが、果たして世の中の弱者女性の多くは、そのような社会を求めているのだろうか。
男性優位の社会を壊すということは、「男性に優遇される女性」や「夫に養われる妻」といった地位を失うということでもある。
女性の社会進出が進めば、男性の地位は大きく下がることになる。
男性の仕事は減り、賃金も減る。それが市場の摂理だからだ。
女性の社会進出が進むにつれて、男女の賃金格差は均衡を保つように推移するが、それは男性側の賃金に対する下落圧力を生み、労働市場の低賃金化を招くことになる。女性の賃金を上げるよりも、男性の賃金を下げるほうが市場にとっては合理的なのである。また共働きを前提とする生活様式の定着は個人の単価を引き下げる大きな要因ともなる。
すると女性を養える男性も減ることになる。
そして多くの夫婦は共働きを強いられるようになる。
女性の社会進出を阻害する配偶者控除も見直されるようになる。
女性のホームレスも増える。女性の自殺率も上昇する。
アファーマティブ・アクションによって望まない管理職を押し付けられるようになる。
女性は他の男性と同じように、辛い職場で死ぬまで働かされるのだ。
残業代の出ない名ばかり管理職で消耗し、結婚と妊娠の機会を逃すのだ。
フェミニズム運動がすべきだったのは、女性の地位を向上させることよりもまず、新自由主義の弊害や歪みと向き合うことだったのではないか。社会システムの根底にある巨大な要因に目を向けず、目の前の分かりやすい利益と理想ばかりを追求した結果が、この今の生きづらい社会なのではないか。女性運動の怠慢と欺瞞が昨今の女性間格差を生んだのではないか。
女性だけが不幸になったのではなく、社会全体が不幸になったのだという現実を直視しない限り、フェミニズムはいつまでも女性を救えないままである。
しかし強者女性はそれでも良いと考えるだろう。
容姿に優れた女性は、年収の高い強者男性と結婚し、家事育児に専念できる環境を手にすることができる。多くの時間を子供のために使い、愛情を注ぎ、優れた人格の形成に尽くすことができる。地位の高い優秀なキャリア女性であれば手厚い福利厚生・雇用保障や民間のサービスを活用することもできるし、いずれは海外と同じように、外国人労働者を家政婦として低賃金で雇い、搾取できるような時代もやってくるだろう。お金に困った弱者女性や発展途上国の貧困女性に代理出産を強いれば、自身の出産リスクとキャリア・リスクを回避することもできる。
では、弱者女性はどうなるのだ。
容姿が悪く地位も低い底辺女性を、誰が助けてくれるのだろう。共働きが必須となった現代社会では、中流の男性でさえも稼げない弱者女性を避けるようになってしまった。格差の無い男女平等の社会を用意してやるから自分でどうにかしろ、とでも言うのだろうか。弱者男性と結婚し、底辺同士で一生共働きをしていろとでも言うつもりか。代理母出産でお金と産みの喜びを掴もうとでも言うつもりか。※1 ※1-1 ※1-2
女性解放運動が勝ち取ったのは、出産もできずに死ぬまで共働きを続けなければならない茨の道ではないか。過去の女性たちが自ら招いた不幸で残酷な自由、それを現代の女性に対して「“女の生きる道”」と言って押し付けて良いものか。
それでも弱者女性は妥協することなく、年収の高い強者男性を求め続けるだろう。しかし世の強者男性は弱者女性など眼中にない。弱者女性は、決して振り向いてくれない王子様を求め続けながら、年老いていく運命にある。上下関係と同調圧力が強く見栄の張り合いばかりのギスギスとした女性グループの中で、死ぬまで勤め続けるしかない。
かつてはこのような女性にも、専業主婦という逃げ道や、その受け皿となる男性が存在していたが、彼らも今や男女平等社会に溢れる弱者男性である。そして彼らはフェミニストたちに侮蔑の対象として見られている。彼らは時に「キモくて金のないおっさん」と揶揄され、キモくてウザいオタクとして忌み嫌われ、嫌悪と差別の対象となっている。金のないイケメンのアルバイターやフツメンの派遣労働者でさえもゴミのように見られる。
弱者女性は何もわからないまま、声の大きな強者女性やメディアからいいように扇動され、世間に溢れる男性への蔑視や偏見を真に受け、同調し、弱者男性を拒絶するように生きてきた。※2
男女の雇用・賃金格差の是正に伴う雇用・賃金縮小の煽りを受けた弱者男性や、弱い立場を利用し手段を選ばない感情的な女性たちから謂れのない罪を押し付けられる弱者男性もまた、男女平等の理想に矛盾を感じ、女性に対して反感を覚え始めている。多大な庇護と恩恵を受けてきたはずの女性たちが、さらなる優遇を求めている。弱者男性はそこに不平や不公平を感じている。「男性だって辛いのは同じだ」という反発は、わがままで理不尽な要求に対する反発の表れであるとも言える。フェミニズム運動が生み出してきたのは「男女の対立」だったのだ。
かくして、弱者男性と弱者女性は、永遠に巡り会うことなく、自然淘汰していくのである。
これが、フェミニストたちが望んだ社会なのだろうか。
昨今のフェミニズム運動は、ヒエラルキーの上位にいる女性が下位にいる女性を抑圧する構造を生み出しているように思えてならない。
結局は強者女性だけが得をし、弱者の分断を広げただけではないか。
強い女性にとって都合の良い社会を生み出すだけで、本当の弱者は決して報われることがない。
自由と平等の目指す先にあるのは格差の拡大と自己責任の押し付けだ。
フェミニズムは弱者淘汰を助長する残酷なシステムとして機能してしまっている。※3
男女の平等と女性の社会進出を推し進めた先にあったのは少子化する社会だけだった。政府の少子化対策も、既に子供のいる家庭や既婚者に対する優遇でしかなく、結婚をし家庭を持ちたいと願うロスジェネ世代への救済にはなっていない。持てる者たちを支えるために、独身の貧乏な弱者たちが犠牲を強いられるという、新たな格差の構造を生んだだけだった。※3-1 ※3-2
共働き世帯の増加は子供の愛情不足と孤独化を生み、歪んだ人格を持った大人を量産する結果となった。近年では、ひきこもり・ニートといった社会に適応できない若者が急増し、社会問題になっている。日本の福祉社会のロールモデルたる北欧社会においても、非行や犯罪に走る若者が急増し社会問題化している。
昨今の有事下で女性の自殺者数が上昇しても強者女性はお構いなしだ。不器用な弱者女性たちに必要だったのは社会進出よりもまず、お互いを支え合う関係性やパートナーの存在だったのではないか。社会進出を求めるフェミニズムの同調圧力が不器用な彼女たちを苦しめている可能性にも目を向けるべきではないか。フェミニズムはお互いを支え合う男女の関係を壊し、男女の対立構造ばかりを生み出してきたように思う。
男女の生物的特性に最適化された既存の社会を否定し、偏った不安定な社会を推し進めれば、いずれはそれに適応できない弱者を切り捨てることになる。劣等な遺伝子が淘汰されることは自然なことなのかもしれないが、しかしそれを助長する権利など我々にはないはずである。フェミニストたちの理想は、この社会の混乱や犠牲と向き合うものなのだろうか。弱者の犠牲の上に成り立つ自由であることを理解しているのだろうか。私には、この昨今のフェミニズムというものが、感情と満足だけで弱者の淘汰が正当化されてしまう、非常に利己的で危険な思想に思えてならないのである。※4 ※5
男性と女性が対等な立場に立つ社会は求められてしかるべきだと思う。チャンスは平等に与えられるべきだ。男性優位の社会は確かにおかしい。女性が男性に守られるべき弱い存在と見なされ、それを支える男性のための社会が維持され、男性の苦労と女性の妥協で社会が成り立ってしまっている。感情的に見れば、これは明らかに歪で気持ちの悪い社会だ。優越する男性の存在が何よりも気持ち悪い。彼らに媚びる女性もまた惨めだ。「女性を守る男性」という構図は「女性を支配する男性」の構図でもあるのだ。だから、女性には自分たちの不満を主張し社会の抑圧から解放される権利があるし、男女平等の社会を求めるもの当然のことだと思う。
しかしそれが実現された後のことまで考えられている人が、果たしてどれくらいいるだろうか。昨今のフェミニズムは男女の対立ばかりを深め続けているが、その状態で社会を変えれば、どういった結果が生まれるか、考えたことはあるのだろうか。インフラとセーフティネットが整わないうちに社会を急速に変えてしまえば、どういった混乱や困窮がもたらされるか、理解できているのだろうか。行動には必ず責任と代償が伴う。それを自覚できている人が、一体どれだけいるのだろう。
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※1 生涯独身の女性が増えれば、その分だけ女性の活躍の場と賃金の必要性が高まる。未婚率の上昇はフェミニズム運動を加速させる要因になっているのかもしれない。やりがいと賃金の向上が、結婚のできないまま死にゆく女性に対する唯一の救済とは、なかなか悲観的で残酷な時代になったものだ。
このようなモチベーションの蔓延は少子化を加速させ、人類を衰退へと向かわせる。もはや彼女たちは、滅びゆく社会の中でいかに利己的に生きるかを追求する段階に入っているのだ。この人々の悲観こそがリベラル化やイデオロギーを推し進める原動力となっているのかもしれない。
また最近では「専業主婦は怠け者で恥ずかしいもの」といった風潮も築かれつつある。それは育児の大変さや、従来的な、幸せな家庭や子供との時間や愛情、母性を追い求める「女らしい生き方」や「女性の幸せ」すらをも否定しかねない。
要するに、この者たちは、幸せな人々のことが憎いのではないか。「皆で平等に不幸になろう」それがフェミニズムやリベラリズムを推し進める者たちの根底にある思想なのかもしれない。皆が幸せになることを願うのではなく、幸せな者たちを引きずり下ろすことに夢中になっているのだ。幸せを掴むための努力を放棄し、他人の幸福と自由を抑圧し、社会を平均化することでその努めから目を背けようとしている。多様性はどこに行ったのだ。
なぜこのような時代になってしまったのだろう。新自由主義、資本主義・グローバル化による格差社会の拡大が、女性の社会参加を促し、その結果として女性が不平等を自覚するようになり、フェミニズムが求められるようになったとも考えられるだろうか。
突き詰めれば、現代フェミニストの敵は男性ではなく、資本主義が生み出した社会システムの中にこそ存在している。この格差のメカニズムを是正することが何よりも重要で効果的なのだが、だれもそれに目を向けようとはしない。目の前の分かりやすくて小さな問題を潰していたほうが楽で楽しいからだ。
※1-1 奴隷社会さながらの労働環境に放り込まれ、余暇や家庭を大切にできない日本の社畜社会の悲惨さとブラックさを知り、絶望に打ちひしがれろと言うのか。人手不足に陥った労働市場と生産年齢人口の回復のための駒として日本政府や資本家・経済界から都合よく利用され、働かない中年男性や引きこもりニートたちの代わりに汗水を流し続けろとでも言うのだろうか。
※1-2 妊娠をキャリアの足かせと捉え、卵子凍結や代理母出産を歓迎する社会は、あまりにも異質で行き過ぎた社会のようにも思える。それは単に社会や強者女性が要求する抑圧でしかないのではないか。そのような社会システムのもたらす意志とは別に、そこに人間という個人としての意思は存在するのだろうか。
※2 非モテ男が二次元の女性に逃げるようになったのは、「女らしさ」を捨てた女性が増えたことの反動ではないだろうか。捨てたというよりは、女性が非モテ男性に女らしさという隙を見せなくなったと言うべきだろう。現実世界で女性に尊重されなくなった弱者男性たちが、二次元の架空の女性に理想の女性像を求めるようになったのである。
非モテ男に愛されない女性がモテ男に愛されるはずがない。誰とでも分け隔てなく接してきた心の広い女性だけが本当の幸せを得られるのかもしれない。
本当に幸せで満たされた人生を送っている女性は、そもそもフェミニズムなどという思想には傾倒しないような気もする。もっと楽しいことや、愛すべきもの、やりたいことがあって忙しいからだ。それを手にすることができなかった人たちが、フェミニズムに傾倒し、憎悪を発散し、正義を振りかざすことの快楽にすがり続けてしまうのかもしれない。そして最後に残るのはボロボロに崩壊した精神と、ストレスによる脳の萎縮、醜く変容した人相だけである。何かを憎み続ける人生、それは本当に幸せなことなのだろうか。
すべての責任を社会に押し付け、社会の変化を求め続けるのは簡単だ。しかしそれによって社会が良い方向へ変わる保証はない。社会の変化を待つよりも、まずは自分を変えるべきではないか。新しい価値観や幸せを見つけるための努力と、社会を敵視して理想を叫び続けるための労力、そのどちらに価値があるだろう。
※3 弱者は資本主義社会のさらなるカモにされていく。フェミニズムはネオリベラリズムにとって都合の良い存在でしかないのだ。いずれ新自由主義者によってフェミニズムが利用されるようになり、フェミニズム運動は大衆を誘導するための装置として機能するようになるかもしれない。
つまるところ、自由と平等を求めるリベラリズムの実態は、強者がより強者になるための思想でしかないのだ。自由競争の中で勝ち残れるのは強い者たちだ。それが分かっているから、彼ら強者は大きな声で自由主義の必要性を唱える。持てる者たちは勝てる見込みがあるからこそ賛同する。しかし弱者は這い上がれないまま搾取され続ける。強者の利益は決して弱者に還元されることはない。強者総取りで逃げ切られるだけである。昨今の資本主義社会がそれを証明している。新自由主義が推し進めたグローバル化も同じである。国と国の自由貿易と自由競争を推し進めた結果、貧しい国の政府が自国の経済成長のために、貧しい子供たちに安い賃金で重労働を強いるようになった。得をしたのは自国の強者たちと輸出先の豊かな国々だけである。自由主義は決して弱者を救わない。それどころか自由主義は弱者を生み出すための謀略でしかない。リベラリストの掲げる自由と平等は、「人々」のためのものではなく、強者という「個人」のためのものなのだ。優秀な個人を尊重するための思想が、結果として弱者を抑圧し、その犠牲の上で強者が優遇される社会を生み出してしまっている。
※3-1 実のところ、フェミニズム運動によって一番得をするのはネオリベラリストたる資本家である。専業主婦が減り、独身の弱者女性が増え、男性を敵視する生涯独身女性が増えれば、その女性たちを労働力として確保できる。経済的搾取が可能となる。家庭や子供との時間を捨てた彼女たちの時間を、自分たちに都合の良いように利用することができるのだ。
フェミニズム運動によって仕事に打ち込む女性が増え、少子化が進み、男女の対立も深まっている一方で、お金のある恵まれた資本家や富裕層は仲良く子供を生んで幸せな家庭を築いている。これこそが新自由主義者たちの目指した格差社会ではないか。優秀な人々だけが子孫を残し、劣等な者たちは彼らを支えるための奴隷となったのだ。
おそらく100年後には、劣等な人々は淘汰され、その多くはロボットや人工知能によって代替されていることだろう。労働者や研究者は自分たちの発明によってその身を滅ぼすのである。何とも皮肉な話であろう。最後に得をするのは資本家や権力者といった支配階級の者たちである。いずれ、優秀な遺伝子と知性を兼ね備えた少数の人々だけが限られた資源を独占する時代がやってくる。昨今の格差社会の拡大と弱者淘汰の加速は、まるでその準備段階であるかのようだ。世界は今、人口削減という潮流の中にあるのかもしれない。
※3-2 フェミニストたちの目指す先にあるのは一夫多妻制の実現なのではないかという気もしてくる。フェミニズムの目指す社会は、一夫多妻制を導入することでしかその形を維持できないものとなるのではないか。フェミニズムとネオリベラリズムの目指す先にあるのは、劣等なオスの淘汰と富の独占、そして一夫多妻制の実現かもしれない。
思えば、女性という生き物は「強いオス」の存在を絶えず求めてきた。そして女性はいつの世もその強者男性に都合の良い社会の構築を本能的に求め、支えてきたのではないだろうか。フェミニストたちはまるでその本能に従うかのように、弱者を淘汰し、少子化を加速させ、この社会を自死へと導いてきた。この社会で生き残れるのは、もはや新自由主義社会を生き抜き強大な富と力を得た強者男性たちだけである。そう考えると、フェミニズムとネオリベラリズムは実に相性の良いものであることがわかる。実のところ、フェミニズムは潜在的にマッチョイズムを求めているのではないか。彼女たちは強者による弱者への抑圧という資本主義の暴力性を無意識に支持しているのではないか。
※4 フェミニズムに傾倒する女性には、容姿に優れた女性や、社会的な地位の高い女性の割合が多いのではないだろうか。教師や弁護士、キャリアウーマンといった、精力的な女性が、フェミニズム運動を推し進めているのも事実だ。彼女たちはノブレス・オブリージュを果たし、弱者女性に寄り添う正義のヒーローのように振る舞っているが、実際は弱者女性を抑圧してしまっているだけなのではないか。強者女性たちのイデオロギーと満足のために、弱者女性が利用され犠牲にされてしまっているようにしか見えないのだ。
女性が地位の向上やアファーマティブ・アクションを求めるのも、結局はヒエラルキーの上位にいる強者女性に都合の良いものでしかないのかもしれない。フェミニストの多くは女性の地位向上や社会進出、役職、議席を求めるが、それは既にある程度の地位にいる優秀な強者女性たちが、さらなる上のポジションに這い上がれないことのフラストレーションからくるものだとしたら、これは弱い女性のための活動ではなく、結局は自分たちの利己的な動機に基づいた活動でしかないのだろう。そんな強者女性に扇動される弱者女性こそが最大の被害者ではないか。
男性優位の社会に甘んじ、男性に守られ、奢られ、養われようとする女性の存在を、フェミニストは快く思っていないのだろうか。お節介な老人のように「甘えるな」「自立しろ」「男性に媚びるな」と叱りつける彼女らは、まるで、ひ弱な若者に対して「もっと死ぬ気で働いてお金を稼げ」「お前らに根性はないのか」「デモに参加しろ」を掻き立てる左翼の爺さんを思い起こさせる。安全地帯から自分たちの理想と価値観を押し付けているように見えてしまう。フェミニストはちやほやと守られるか弱い女性を嫌悪しているのだろうか。真っ当な自分たちに反して甘えを続けようとする女性たちを妬み、軽蔑しているのではないか。彼女たちのことを哀れもうとするのも、結局は自分たちの優位性を自覚できるからではないのだろうか。
フェミニストたちの行動は「あなたのため」と言って娘の自由を束縛しようとする母親の行動にも重なるものがある。
フェミニストたちは「女らしさ」という女の武器を封じ込め、弱者女性の機会と可能性を奪っただけなのではないか。フェミニズムが理想とする「女らしさを売りにしなくても女性が生きていける社会」など詭弁に過ぎなかった。ライバルを陥れるための策略でしかない。その欺瞞に満ちた理想は、女らしさを売りにしなければ種を残すことも叶わない切実な弱者たちを切り捨てるものでしかなかった。
※5 自由と正義を主張する多くの者たちは、自分たちこそが正しいと信じ、他人を劣ったものと見なし、優越し、自らの正義を他者に押し付けようとする。それを拒もうとする者たちを差別し迫害する。彼らは一貫して選民思想に行き着く。弱者は強者の足を引っ張る存在と見なされ、切り捨てられるようになる。竹中平蔵や上野千鶴子の思想は強者が強者であり続けるためのものでしかない。強者が弱者を救い、強者が弱者に寄り添うような貴いものでは決してない。弱肉強食の世界を歓迎し、溢れた弱い者には自己責任を押し付けるだけの無責任な思想である。彼らの目指す先にあるのは共生ではなく対立と分断だ。「劣った者たちは優秀な我々の足を引っ張るな」「劣等種は子孫を残すな」それが彼らの思想の根底にある侮蔑と優越の感情なのだ。彼らの主張する自由と解放は、優秀な強者のための自由であり、強者が強者の地位を獲得し謳歌するための傲慢な自由だ。それは優秀な人々に対する正当な対価なのかもしれないが、しかしそれは弱者の犠牲の上で成り立ってしまっている。彼らは「抑圧される優秀な自分たち」という被害者意識の元に、弱者を抑圧する側の地位を勝ち取ったが、結局はその地位と権益に甘え続けているだけなのだ。十分な利益を得てもなお、欲望のままに権利と利益を欲し続けている。そんな彼らの傲慢さが、昨今の格差を生んだのだ。