何でもかんでも法律で規制するべきだろうか|表現規制は最後の手段

海外では表現規制が進んでおり、人種の差別や男女の性差別も法律で厳格に規制されている。

それらを引き合いに「海外は日本よりも進んでいる」と熱弁し、欧米人の高い意識を称賛し、その思想を熱心に取り入れようとする者たちを見かけるが、果たしてそれは本当に優れて進んだ文化と言えるのだろうか。

法律を定めてルール化しなければならないほどに人々の常識と倫理が破綻していたということの表れではないのか。

我々外国人は多くの問題を個人の話し合いや社会の中で解決できなかったために仕方なく法律で規制しました、配慮や寛容、慈悲の心がない愚劣な民族を統制するために泣く泣く厳格なルールを設けました、と言っているようなものだろう。人権や法律を誇ることは、手首に巻き付けられた縄の量とその頑丈さを自慢するような愚かなことだ。

日本に生きる我々も、彼らと同じ道を歩むべきなのだろうか。

まだ早すぎるのではないか。もっと議論をし、人々の常識とモラルに委ねてみてはどうか。社会を変えるのは法ではなく人だろう。人を変えるのは言論と話し合いだ。法によって担保された自由は本当の自由と言えるのか。それは見せかけの進歩と平等だろう。そこに人々の心からの理解と自発的な意志は存在しない。それはディストピアとなんら変わらない世界だ。なにかを抑止してもまた別のレイヤーで問題が生まれるだけだ。法を根拠にして人々の自由を奪おうとする劣悪な正義が生まれるだけだ。そして、法に書かれていなければ何をやっても良いのだといって、身勝手な自由を行使する人々が生まれるだけである。

我々は自立した社会を目指すべきだと思う。

民主主義は理性ではなく感情で動く。それが現実だろう。その真実に気づいてしまった人々は、それを正すのではなく利用することを選んできた。人々は過剰な演出で自分たちの正義を信じ込ませようと必死になっている。感情的な反発から生まれた正義や法律は、いずれ自らの自由を抑圧し、身動きの取れない窮屈な社会を生み出すことだろう。

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