昨今の攻撃的で行き過ぎたフェミニズムの現状は、女性たちの中にある「男性への反発心や憎しみ」がもたらしたものである、というよりはむしろ、持たざる女性たちによる「恵まれた女性たちへ嫉妬心と憎しみ」こそがその暴走の大きな原動力となっているのではないだろうか。
要するに、彼女たちは恵まれた女性たちの幸せが気に食わないのである。そしてその裏には、そのような幸福を持ち得ない自分たちに対する強い劣等感と、「他人から惨めな女と思われたくない」という切実な動機が隠れている。
フェミニストたちが、しばしば女らしさをアピールする行為を極端に嫌悪したり、女性性を謳歌する女性たちの価値観を遠回しに否定したり、家庭的な女性像を描いた作品を必死になって否定しようとするのは、そのような幸福の価値観が人々に受け入れられ一般化されることを恐れているためではないか。
自分たちのものと相反する価値観が世間に受け入れられてしまうと、そのような価値観や社会的地位を持たない自分たちという存在が、世間からあぶれた可哀想で惨めな存在であるという現実を浮き彫りにされてしまうからだ。手の届かない世界への渇望や競争心を煽られ、絶望感や焦燥感に駆られてしまうからだ。
それが嫌で嫌でしょうがないのである。
そのモヤモヤとした不安から「解放」されたいのである。
それこそが「抑圧」だと思っていたものの正体でもある。
しかし、彼女たちは男性による抑圧という都合の良い根拠だけを持ち出して既存の社会を否定し、世間の価値観を否定することによって、自分たちの置かれた立場や価値観を正当化しようとしている。そして女性差別的であると疑わしき問題をことさらに取り上げ、「それ見たことか」と言って自分たちの正しさと正統性をここぞとばかりに主張する。挙句の果てには、自分たちの価値観を他人に押し付けて、少数派の孤独から逃れようとしたり、自分たちが正しい側にいるという確証を得ようとする。
家事育児に専念する家庭的な女性像を、男性による束縛や抑圧とみなす主張もまた、持てない惨めな自分たちの境遇を正当化するための建前でしかない。
彼女たちは「家庭的な女性は不幸な存在である」と信じてやまないが、それはあくまで「そうであってほしい」という願望に過ぎない。なのにその確信をより強固なものにしたいがために、彼女たちは男性に束縛された家庭的な女性を憐れみ、既存の女性像を女性差別的と言って熱心に批判する。そうでもしなければ、家庭を持たない選択をした自身の立場が揺らいでしまうからだ。
彼女たちは、自分たちが直面する非モテや独り身、子なしという惨めな境遇を正当化するために、その孤独な道を自らの意思で選んだものと思い込もうとしている。周りから惨めな女性と思われたくないがために、男性からの解放という後付けの根拠を持ち出して、自身の選択を必死に美化しようとしているのだ。
男性に依存しない自立した女性こそが理想の女性像であると自分に言い聞かせ、終いにはその個人の理想を周りの女性たちに押し付け、幸福な者たちを道連れにしようとしている。
そうなれば、惨めで孤独な自分という存在が社会の中で平均化され、当たり前の存在として見なされるようになるからだ。不幸な人々を増やすことでもって自身の不幸の相対値を下げようとしているのである。
「結婚できなかった」のではなく「結婚しなかった」のだと言ってどんなに強がっていても、結局は、他人からどう思われるかが気になって仕方ないのである。そして自分だけが不幸であることが許せないのである。
「皆で平等に不幸になろう」それが彼女たちにとっての「平等」であり「解放」なのだ。
「自分のものにならないのなら誰のものにもしたくない」それが彼女たちの中にある歪んだ動機である。
あろうことかフェミニズム運動は、その同調圧力と女らしさの剥奪を容認し、持てる女性たちの自由と幸福、多様性を奪ってきた。
若い頃に女らしさという武器を散々利用してきたにもかかわらず、いざ自分たちが持たざる側の女性になったと分かれば、その既得権益を若い女性たちに渡すまいと必死に守り、女らしさは抑圧的で悪いものであると若い女性たちに言い聞かせるようになった。
つまり彼女たちのやっていることは、持てる若い女性たちへの「監視」と「牽制」なのだ。まさに「女の敵は女」である。幸せの没収をして、不幸な自分たちへの同調を求め、持てる女性たちの足を引っ張っている。若い女性たちの可能性を奪うことが彼女たちの目的になってしまっているのだ。まさしく不幸の再生産が行われている。
結局のところ、フェミニズム運動は「女性たちのための活動」ではなく「自分たちのための活動」でしかなかったのである。女性のためと言いながらも、結局は自分たちに都合の良いように社会を歪めているだけなのである。他人のための正義ではなく、自分のための正義なのだ。
かつては女性性が男性の支配下に置かれていた時代があったが、今ではフェミニストが女性性を支配している。一部の声の大きな女性たちが、気に食わない「女性性」を排除し、代わりに自分たちにとって都合の良い理想の「女性像」を規定し、それを女性たちに無理やり押し付けている。「抑圧される女性たち」という構図は昔から何一つ変わっていないのである。そこに女性たちの意志は存在するのだろうか。そこにあるのは「女性たちの意志」ではなく「フェミニストたちの意志」なのではないだろうか。
フェミニストたちは、フェミニズムの宗教的な側面にすがる狂信的な女性たちを利用して、その勢力と影響力を拡大してきた。売名と金儲けのために人々の憎悪を煽ってきた。さんざん信者たちをもてはやしておきながら、都合が悪くなれば「一人一派」「一部の過激な男性嫌悪者が勝手にしたこと」と言って平気で彼女たちを切り捨ててしまった。女性を搾取しているのはフェミニストたちの方ではないのだろうか。
あの惨めな女性たちは、社会の犠牲者であると同時に、フェミニズムの犠牲者でもある。
フェミニズムは彼女たちを肯定するための手段を誤ったのだ。
一人でも強くたくましく生きようとする女性たちを誤った方向に導いてしまった。
闘争心ばかりを煽り、向こう見ずな理想ばかりを掲げ、現実と向き合う道を示せなかった。
フェミニズムはその責任を自覚する必要があるのではないだろうか。