フェミニズムの見えざる手|女性性アピール競争の抑制とスタビライザー化する男性たち

「私が女性性を追い求めなければならないのは、どう考えても女性性を要求する男性が悪い」のメカニズムについて考えていきたい。自称フェミニストたちはなぜ、男性に媚びる女性や、性的な魅力を前面に押し出す女性を嫌悪し、その感情を男性に転嫁してしまうのだろうか。

このテーマは以前より「持たざる女性たちの嫉妬心と劣等感」という観点で既に考察しているため、今回は少し異なる視点で彼女たちの行動原理を探っていきたい。フェミニズムそのものを否定するのではなく、フェミニズムの行き過ぎた側面に焦点を当てていく。

以前の考察:フェミニストは女性の幸せを奪った|平等な不幸と自由な自己責任を求めたフェミニズム

彼女たちは女性性のアピール競争に疲れ、苦痛を感じている。

彼女たちは女らしさをアピールさえすればこの競争で勝ち抜けることを知っているが、性的魅力の弱さや自己肯定感の低さからそれを実現することができないでいる。頑張っても望むものを得られないかもしれないという不安に押し潰されそうになっている。

にもかかわらず、彼女たちはその競争を諦められず、その環境から退くことも、目を逸らすこともできない。

自分一人が競争から降りても、周りの女性たちは幸福を獲得していく。
その現実に耐えられないのである。

他人が得をすることで、何もしなかった自分が損をしたように感じられる。
自分が手を引くことで、周りの女性たちは競争的に有利になってしまう。

だからこそ、彼女たちはこの競争から逃れられない。
義務感や焦燥感というプレッシャーを自ら抱え込んでしまっている。

また彼女たちは「男性に媚びる女性」や「女らしさを安売りする女性」に苛立ちを覚えている。

女らしさを過剰にアピールする出過ぎた女性がいると、競争に求められる女性性のハードルが上がってしまい、結果として自分たちの持つ女性性の価値が下がってしまうからだ。自分たちの持つ武器が通用しなくなってしまう。彼女たちはそこに「焦り」や「危機感」を抱いている。※1

女性性を謳歌する女性を見るたびに、押し隠していたはずの競争心や嫉妬心が喚起されてしまう。男性から注目される女性たちを見るたびに、選ばれない惨めな自分を自覚させられる。

彼女たちはそうやって苦しんでいる。

この絶望の果てに、彼女たちは競争そのものを否定し始める。
競争さえなければ、私はここまで苦しまなくても済んだはずだと考え始める。
自分たちが抱えるプレッシャーの原因は男性の存在がもたらす「まなざし」にあると気づき始める。

しかし、この競争はあくまで自由競争に基づいているため、周りの女性たちに自粛を求めるようなことはできない。暗黙のルールを設けても、いずれ誰かが抜け駆けをする。

そこで、彼女たちはこの際限なく激化する競争を抑制するために「男性による女性性の押し付け」という概念を持ち出すようになる。「女性たちは男性から無理やり競争を強いられている」といって競争そのものを否定し始めたのである。

そして女性性を「男性の欲望に寄り添う悪の存在」であると見なし、男女双方に対して、理想の女性性を表明することの自由を抑圧するようになった。太古の昔から、女性性という武器は、女性が生存競争を勝ち抜くために自らの意思で利用してきたものであるにもかかわらずだ。

「女性はオシャレでキレイでスリムでカワイイ存在でなければならない」という圧力もまた、持てる女性たちが自ら進んで作り上げたものに過ぎない。それを「男性の抑圧」などと言って、全ての責任を男性に転嫁しようとするのはあまりにも無責任である。

真っ先に変えるべきは女性側の意識であると分かっているはずなのに、抜け駆けを恐れるあまり無力感にとらわれ、その義務を放棄してしまった。

そして彼女たちは「男性の欲望によって自分たちは女性性のアピール競争を強いられている」という被害者意識を強化する道をとった。「私が女性性を追い求めなければならないのは、どう考えても女性性を要求する男性が悪い」といって全ての責任を男性に押し付けてしまった。

そしてこの政治的コンセンサスは「男性の要求に従ってはならない」という女性間の同調圧力を生み出し、果たして女性性の開放は実質的に制限されることとなった。

フェミニストたちは、まるで破廉恥を嫌う風紀委員のように、自らの性規範を押し付け、従わない者を軽蔑し遠回しに罰してきた。それは昨今の「ふしだら狩り」や「専業主婦バッシング」「グラビア批判/広告批判」にも表れている。男性の欲求に答えようとする女性は「女の敵」と見なされ、かくして女らしさをアピールすることの自由は抑圧されることとなった。

つまるところ、彼女たちは男性を非難しているようでいて、実は男性に媚びる女性の方を遠回しに非難し、牽制してきたのである。男性の存在と眼差しの概念は、持てる女性たちを牽制し抑圧するための手段としても利用されてきたのだ。

そのように彼女たちは極めて戦略的に、男性を敵に仕立て上げ、女性が自ら女らしさを否定するように仕向けることによって、うまい具合に、女性性の開放に制限をかけ、女性性のアピール競争をも抑止してしまったのである。※2

フェミニズムや反ルッキズムの運動は、幸せな女性や美人を実質的に差別する構造を生み出してしまっているようにも思える。持てる女性たちを暗に否定しているのである。女性のことをもっとも憎み敵視しているのはフェミニスト自身なのではないか。

また近年では、一部のフェミニストたちによる過激な「広告狩り」や「巨乳狩り」「萌えキャラ批判」「キャンペーンガール批判」が問題となっているが、これもまた女性性嫌悪と嫉妬心の発露であり、女性性の開放を制限したいという願望の表れであると考えられる。建前上は「性的消費」や「男性による性役割の押し付け」を根拠に女性性の排斥を要求しているが、その本音は自身の劣等感や焦燥感を刺激する女性性を目の前から消し去りたいだけなのである。

持てる女性たちの活躍によって、自身の相対的価値の下落を感じ、危機感を覚えるからだ。社会の価値観から外れた自分たちが価値のない存在に思えてしまうのだ。持てる女性たちの打ち出す性的魅力に追従しようとする若い女性が増えれば、なおさら自身の将来的価値は下がってしまう。切迫感に追い詰められそうになる。女性表象を通して、可能性に満ちた若き頃の自分を想起し、可能性が失われた現在の自分との対比を迫られる。自分には得られなかった自由を享受する若い女性たちが憎たらしく感じられる。自分にはない若さと美貌を利用する女性をズルく感じる。ちやほやされる女性の存在が鬱陶しく感じられる。ちやほやされない自分を自覚させられるからだ。疎外感を覚え、惨めな気持ちになるからだ。自分が選ばれないことに憤りを覚えている。差別に守られている女性たちが憎い。既得権益を若い女性に譲りたくない。自分のものにならないくらいなら誰のものにもしたくない。だから自分たちが追い求めてきた既存の価値観を今になって否定し始める。若い女性ばかりが選ばれる現実に憤りを覚え、その現実を必死に否定しようとしている。男たちの関心が美人や萌えキャラ・人工知能・アンドロイドにばかり向けられていることが許せない。異性の関心が自分に向けられないことが腹ただしい。自分たちの分のオスが奪われ失われているように感じてしまう。美人女優や美少女キャラばかりが活躍すると、世間の求める美のハードルが上がってしまい、それによって目の肥えた男性が増えれば、自分たちは選ばれなくなるかもしれないと危惧している。身の丈に合わない美や仕草に追従せざるを得ない状況に不満を感じている。

だから何としてでも女性性の開放に制限を掛けたいのである。しかし女性側の主体性や自由意志を奪うことはできないため、仕方なく「男性のまなざし」や「性的客体化」というロジックを持ち出している。

そうやって男性を敵に仕立て、男性側の需要を抑制することによって、女性性の供給を間接的に押し下げようとしているのだ。女性性を求める男性がいなくなれば、女性性を追い求めなければならないという焦燥感や競争心からも解放される。周りの女性たちが持つ女性性という武器を封じ込めれば、自分たちにもチャンスが与えられる。女性性という富の資本的価値を消失させれば、女性間の格差が均一化され、自分たちは内面によって評価されるようになると頑なに信じている。女らしさをアピールできない持たざる自分たちに都合の良い世界を実現するために、彼女たちは極めて戦略的に男性の存在を利用し、高度な政治性のもとに「女らしさ」を排斥しているのである。

可能性を広げようとするのではなく、狭めることに注力してしまっている。表現を生み出すことではなく、無くすことばかり考えている。持てる女性たちの自由と多様性を奪うことが目的になってしまっているのだ。自分一人が競争を降りるようなことはできないから、せめてでも周りの女性たちを巻き込もうとしているのである。自分だけが不幸になることが許せないから、「皆で平等に不幸になろう」といって周りの女性たちの足を引っ張っている。

抜け駆けをする女性が出てきても、男性側の需要を批難することで、間接的に女性側の供給を抑制することができる。当事者の意思を介することなく、直接男性側の責任のみを追求し、物事を廃止ないし自主規制へと追い込むことができる。そして誰もこの政治的な正しさに異を唱えることはできない。まさに無敵の理論である。

男性の存在と眼差しの概念は言わば、泥沼化するアピール競争を抑止し、女性間の格差を是正するための「安定化装置」として機能してしまっている。持たざる女の見えざる手に喉元を掴まれた世の男性たちは、女社会の秩序を維持するビルトインスタビライザーとしての犠牲を強いられているのである。

世の人々がフェミニズム運動に懐疑的な理由はまさにそこにある。もっと素直に「私が不快になることはするな」「終わりのない競争を終わらせよう」「抜け駆けはやめよう」「お互いに自粛しよう」「男性も協力して」と直接伝えれば良いものを、不誠実に周りの女性を利用したり、ことさらに男性を悪者にして、遠回しに問題を解決しようとするから、反発されるのだ。それがそもそもの過ちなのである。人々は正しさや正義を拒絶しているのではなく、その裏にある得体の知れない動機に対して拒絶と嫌悪を示している。正義を手段として利用するその卑怯さを批難しているのだ。

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※1 ちなみに女性たちがオタクを嫌悪してやまないのは、オタクがその女性性のアピール競争に加担する存在だからだろう。女性が自らの性を安売りし、その価値を下げた原因はオタクたちの強い需要にあると考えているのだ。だからこそ彼女たちはその供給となるオタクコンテンツのみならず、ダンピングを後押しするオタクの存在をも嫌悪し排除しようとする。

※2 これらは女性の生殖本能に基づいた行動であるようにも思う。

彼女たちは自分たちに有利になる環境を絶えず求め、それを実現するための行動を無意識のうちにとってきたのではないか。

また新たな見方として、彼女たちはライバルである周りの女性たちを牽制しながらも、自分だけは抜け駆けをする機会を窺っているのではないかとも考えられる。抜け駆けをする女性にズルさを感じてしまうのは、抜け駆けをしたいという願望があるからだ。持たざる女性たちが、女性性の平均化を望むのは、抜け駆けができる状況を手に入れたいという欲求があるからだとも考えられる。

女性は建前によって周りの女性たちを牽制するが、自分だけは絶えず抜け駆けの機会を窺い続けている。女性の支持する「可愛い」の実態が往々にして男性の求めるそれと乖離しているのは、そこに女性の本心が存在していないためだろう。過剰なほどの短い髪型を勧め合う女性たちの行動や、ムダ毛処理をしていない自然体の女性を称賛する行為もまたしかりである。女性が歪んだ価値観をあえて支持するのは、それを支持することによって周りの女性たちがその価値観を取り入れ追従することを見込んでいるためだろう。それが見込み通りとなれば、周りの女性たちが見当違いの可愛らしさを振りまく傍らで、自分だけは男性の求める可愛らしさを先んじてアピールすることができる。周りのレベルを落とせれば自分だけは相対的に優位に立てる。問題は、周りの女性たちの正当な可愛さアピールを牽制していたつもりが、自分自身までもがその抑圧の構造によって縛られてしまうということだ。周りの女性を出し抜く隙もないままに建前は同調圧力となって完成されてしまう。しかし同時にそれは彼女たちにとっての安心ともなるのだ。

女性たちは「出過ぎた女性」を共同体の輪を乱す「異分子」と捉え、それを排除するための行動を無意識にとっていると考えられる。また彼女たちが女性を直接的に攻撃しないのは、そこに集団の本能があるためだろう。というのも、女性は女性間の争いを避ける傾向にあり、それは自分たちの妊娠・出産・育児のための安全な環境を守るためでもある。女性間の協力関係や友好的な関係は何よりも重要なのである。だからこそ、女性は女性間の直接的な争いを望まず、それ故に、男性の存在を利用して遠回しに異物を排除しようとするのではないかと考える。

フェミニスト界隈で自浄作用が働かないのは、内輪の争いを避けようとする女性の本能が関係しているのだろう。彼女たちが行き過ぎたフェミニストを否定しないのは、集団から裏切り者として排除されることを恐れているためではないだろうか。おそらく彼女たちは「偏った主張をする女性」よりも、「女性を否定する女性」という分かりやすい存在のほうが、異分子としての罪が重いということを直感的に理解している。そして「偏った主張をする女性」を排除するには「女性を否定する女性」にならなければならないというジレンマに陥っている。そのため彼女たちは「偏った主張をする女性を否定する女性」としての役割を放棄し、結果として自浄作用が働かなくなるのではないか。

※3 一部の者たちは「選ばれる側ではなく選ぶ側」の地位を早々に獲得したいがために、「求める男性と求められる女性」という事実を強引に持ち出し否定しようとしている。求める男性という構図は男性側の権限の強さを示しており、それ故に女性は支配されている、といった具合にである。それによって「女性の解放」というテーマの正統性を補強しようとしているのだ。男性と女性が絶対的対等の立場に立つ社会の実現のためには必要なロジックなのかもしれないが、しかしその正しいはずの正義が本来とは異なる動機の元に利用されてしまっているというのが、昨今の実情なのではないか。全体の利益ではなく集団や個人の利益ばかりが無秩序に追求されてしまっているのだ。

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