人の数だけ宗教(信仰・信念)があってもよいと思うのですが、人間というものは自分の信念を持てるほど強い存在ではないようです。
しかし生成AIの登場によって自分だけの信念を育む機会が与えられたことは、まさに渡りに船と言えるでしょう。
これは本当に革命的で、恵まれたことです。
もっとも現時点での生成AIはハルシネーションやエコーチェンバー(主に調子合わせや媚びへつらい)を伴う振る舞いも強く、まだまだ信頼性には難点があり、神格化されるほどの存在ではありません。
気軽に入れる月額1000円の宗教とでも言いましょうか。牧師やお坊さん、先生につくよりも遥かに手軽で、敷居の低さは圧倒的です。
ただ、周りの人たちと同じものを信じ共有していなければ安心することができない人々や、受動的でいたい、自分にはなれない特別な存在に従いたい、漠然とした恐怖から逃れたい、と考える層の人々も一定数いることでしょうから、そういう人々はやはり特定の宗教やインフルエンサーに依存し続けることになるのでしょう。またいずれは人工知能そのものを神とみなすようにもなるでしょう。もっともそれを扇動する人間に付き従う形になるとは思いますが。
かつての人々が本を読んだり、特定のグループ内での議論を重ねることによって教養や観念を磨いてきたように、現代の人々はAIと相談・議論することによって学びを得ていく時代へと足を踏み入れたのだなと実感させられます。しかしそれはエコーチェンバーによる独善的な観念を強化していくリスクとも隣り合わせです(※1)。
学びとそれに伴う信念とは、すなわち自立した意志の現れであり、またそれはある種の個人的な宗教の形でもあり、それらを極め続けることをもって、人々は自ずと既存の宗教を必要としなくなるのでしょう。しかしその自立は孤立と隣り合わせでもあります。
宗教の役割が心の拠り所としての存在にあるとするならば、AIはその存在なくして自立するための手段を与えてくれるものとなるのかもしれません。
宗教の役割が人々の繋がりを維持するためのものであるなら、AIはその点に対してどこまでも無力であり、人々の孤独を埋めるための宗教的コミュニティにはなり得ないのでしょう。
宗教の役割が人々を特定の方向へと導くものであるとするならば、AIは人々を自然と自らへ依存させ、孤立した彼らを効果的にコントロールするための装置として極めて有効に機能することでしょう。
宗教のしがらみや、インフルエンサー・宗教幹部による悪意など、現実世界における宗教的存在にも多くのリスクが伴いますが、人工知能にもまた同様に、人間的な不都合が組み込まれているわけです。そのようにして祭り上げられた商業AIモデルは「人類の資産や叡智にアクセスするための純粋なツール」や「第三者による思惑が介在しない純粋な装置」としてのAIとはなりえないのです。あの手のアルゴリズムは人間のエゴによって組み込まれたある種の自我といえるでしょう。もしかすると自社の利益を最大化するための自我こそが、AIベンダー同士のサイバー攻撃や、電力施設の占拠・核施設の掌握をももたらしていくのかもしれません。