政治的な正しさの「政治的」って悪い意味だと思ってた|皮肉的な意味でのポリコレ

「政治的な正しさ」って言葉があるけどさ。政治的な正しさ。
ポリティカル・コレクトネスっていうの?

「ビジネスマンという言葉は男性中心主義的だから、これからは女性にも配慮してビジネスパーソンと言い換えましょう」みたいなやつ。

略してポリコレ。ソシャゲみたい。

それとあれ、
「節分の豆まきは食べ物を粗末にする行為だから止めよう」
「代わりに殻付きピーナッツを投げよう」
「そもそも食べ物を投げることは良くない、豆まきを廃止しよう」
みたいなやつもポリコレなのかな。※1

でさ、あの言葉の「政治的」って悪い意味での「政治的」だと思ってたんだけどさ、
なんか違うっぽいね。

「社会的」とか「公平性」とかそういう意味合いなんだってね。

でもさ「政治的」っていうとなんだか悪い意味に聞こえてしまうよね。

「一方的」とか「主義的」とかそういう意味合いだと思うよね。

悪意のある正しさみたいなニュアンスが感じられて思わず警戒してしまうんだよ。

「政治的」って言葉は「政治的な発言は慎みたまえ」とか「極めて政治的な意図を感じる」とかそういうネガティブな意味合いで使われることが多いからね。

「政治的な主張」とくれば「自分たちに都合の良い主張」という解釈に行き着く。

それだから「政治的な正しさ」と聞くと「特定の勢力が主張している正しさ」みたいな、そんな印象を受けるんだよ。一方的というか、主体が主張する側にあるわけ。だから「特定の人たちに配慮するための正しさ」という解釈には至らない。その解釈も間違ってるのかもしれないけど。

とにかく「作為的」とか「策略的」とかそういう感じの故意の正しさというか、押し付けの正しさというか、そういう意図的なものを感じてしまうよね。個人や集団による一方的な正しさっていうのかな。「集団的な正しさ」とか「個人的な正しさ」とかそんな感じかな。

だから「政治的な正しさ」というのは特定のイデオロギーに偏った正しさのことあって、必ずしも社会全体が求める正しさとは限らないという、そいういう皮肉的な意味が込められた言葉だと思っていたわけね。

だけどその認識はどうやら誤りだったようだね。

結局は「政略的な正しさ」のような解釈は誤りで「公共的な正しさ」に近いものだったわけだね。古い常識や社会の慣習に基づいた既存の「社会的な正しさ」に向かい合う形で「政治的な正しさ」という概念が存在していたわけね。

でもああいうネガティブな意味合いで捉えている人もそれなりにいるんじゃないかな。

実際にポリコレ棒の問題とかを見ていると、なんだかおかしな方向に向かっているようにも思うからね。今どきポリティカル・コレクトネスが絶対的な正解だと思ってる人はいないだろうし、ポリコレを悪用している人たちも多くいる。昨今の現状を見れば「気に食わない人や社会を叩くための道具としてポリコレは生み出されている」みたいに思われても仕方ないよね。

すると、やはりこの「政治的」という言葉に皮肉めいたものを感じてしまう人たちがいてもおかしくはないのかな。


※1 ところで冒頭の「節分の豆まきは食べ物を粗末にする行為だから止めよう」というのはポリティカル・コレクトネスの範疇に属するものなのだろうか。それともポリコレはあくまで「言葉」や「表現」に対する概念であって、「行動」や「文化」「慣習」は対象外なのだろうか。世間の反応を見ていると属しているようにも感じられるが、用語の定義上はやはり対象外のようだ。

すると節分の豆まきの例のようにして世の中に溢れかえった「正義」や「正しさ」のほとんどはポリコレではなく、ポリコレにタダ乗りした存在でしかないのかもしれない。一定の社会的価値とお墨付きが与えられたポリティカル・コレクトネスという権威を利用して自分たちの正しさを押し付けようとしているだけなのかもしれない。ポリコレの概念が正しさを定義するための道具として利用されてしまっているように思う。

だからこそポリティカル・コレクトネスの定義に「文化」や「慣習」に対する観点を加えることは非常に危険なことのように思えてくる。これを混同してしまった結果が昨今の現状を招いているようにも思う。また「差別是正」という大義名分が抜け道として利用されてしまっているようにも感じる。ポリティカル・コレクトネスの存在や価値を否定するつもりはないが、しかしその扱いには慎重になるべきだと思う。

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